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『バカ』な集団行動について考えたこと。回転寿司とか撮り鉄とか。

『バカ』は一度集ったらどこまでも続いて、進んでいく。

人間の身体自体が認知、認識の物差しなので、自分の認識している世界を超えて自分の『バカ』をコントロールする事ができない。

『バカ』のレベルが似ている人といると居心地がよく、他人と『バカ』で繋がると、繋がる人の数の分『バカ』が累乗していき、『バカ』が体内麻薬のようになり、その『バカ』繋がりの仲間がいっぱいの自分の『バカ』が通る世界がたまらなく楽しくなる。

人が自分の『バカ』な行動を肯定し始める時は、大抵が他の同じ『バカ』と結びついた時点からである。

『バカ』同士を結びつける結合部、『バカ』ジョイントには、趣味、笑いのツボ、食、性的趣向から、目立ちたいという欲求、劣等感、他人への悪意、人が持つ欲求ベースから起こる興味や行動、全てが含まれる。ひとつの『バカ』要素ではなくて、複合的に『バカ』ジョイントが組み合わさって、何かの行動を起こす団体が自然となんらかの行動に向かうよう構成されていく。

自他の区別ができている人が『バカ』で集えば、楽しい趣味のサークル的な集まりや、お互いが良い影響を与えあうグループ、例えばトキワ荘に集まった若い漫画家達みたいになるのだろうが、自他の区別ができていない人が集うと迷惑集団になる。

内輪ウケ狙いで、その『バカ』集団内でいかに目立つかにしか興味が向かない人が『バカ』で繋がるとトンデモねー事を普通におっぱじめて、警察や法的措置に至るまでその行動がおかしいとすら思わない。警察沙汰や訴訟沙汰になっても、「なんでここまで?ワタシ悪くなくない?」としか思わないかもしれない。

「回転寿司でイキっても意味ないからやめなよ!」

「線路に立ち入って電車の写真撮るのって、業務妨害だし、犯罪だよ?」

周囲がその行動がどのくらいおかしいかを、どれだけ説明しても届かないだろう。
自分の行動、自分がこだわっている『バカ』を手放すことは、いま一番居心地の良い世界を否定する事になるから怖くて仕方がなく、自分では手放せない。

こだわりの『バカ』を手にしつつも自分の身体を動かして、違う物差しを探しに行くと、ちょっと痛い目にもあうが、自然と自分にその物差しがフィットしていく。

子供時代から大人になっても何かしらの「仲間」ができ、それぞれの時代や環境の中でお互いが『バカ』ジョイントで繋がり、なんらかの社会を構成する。
バズりたい仲間、撮り鉄仲間、『バカ』ジョイントは数々あるし、ネガティブな感情の繋がりがあったって時には良い方に向かう、自分や自分たちの仲良しルールの中に閉じこもらなければ。

仲間という言葉で縛り上げるような、内輪ウケの『バカ』世界の物差しだけに閉じて、内輪ウケの中で行き過ぎた迷惑行動は、外部から叩き潰されることになる。

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