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このnoteは,私の就職先で書いたnoteの続編です。

会社のアカウントで出そうと思ったのですが・・・
内容が重いので,個人のアカウントで供養することにしました。

うつ(空,虚,鬱)と,うつつ(現)。

↓ここから本編↓

「現(うつつ)」の意味とは

「意味」や「意義」を考えすぎて,何かで悩んだり,無駄と思ったことを切り捨てたりすること。ありませんか?

個人的には「遊び」とか「文化」のような「虚構」からしか得られない何かが、あるような気がします。

それが何なのかは分かりませんが,きっとそれは「生きる意味や希望を見出せない社会でも,生きていてよかった。幸せだ。」みたいに思えるものだと思います。

その正体を,虚数の概念を使って考えてみるnoteです。

「父性と母性」という2つの虚

僕は歳を重ねるにつれて、周りより少し幼稚な部分がある自分に嫌気がさす時がありました。
目先の人間関係を温存するための、お世辞が嫌いだったり。
男らしさを発揮することが、どうも苦手だったり。

でもそれが「大人」になることだから、仕方ないよね・・・
そういう諦めの気持ちに、流されそうになったこともありました。

そこで、日本の社会を構成している現(うつつ)を構成している「大人」とは一体なんなのか、もう少し考えてみようと思いました。

「母性の構造」という、戦後社会論のお話があります。
これ,たびたび僕のnoteに登場します。
理系ガチ勢だった私を、文系の学部に引き寄せたお話です。
少し要約・引用したいと思います。
(読まなくても大丈夫です)

母性の構造について(要約)

戦後の日本社会には、自立した個人は存在していません。
男性は立派に稼ぐこと(父性)、女性は男性を支え慰める(母性)という役割を押し付けられてきました。

この父性と母性が、生物学的な男性性・女性性とたまたま一致していたのです。
そしてこの役割を演じるということは、自分の心に嘘をつくということ。

役割を押し付けられるという現実から、目を背ける。
見たくない現実から、目を背ける。

これこそが戦後の日本社会の常識的な「大人像」です。
自分に嘘をついているために、戦後日本の成人男女は本当の自立を獲得できません。

見たくない矛盾から目を背け、自分に嘘をついている虚しい状態を、
男性は稼いだお金で、女性は性的魅力で慰め合うという共犯関係にあります。

そしてそこから生まれる子どもに受け継がれるのは、「子育てをする母」という役割を押し付けられた女性の、肥大化した母性です。
肥大化した母性は、子どもに見たくないものを見させないという、エコーチェンバー的な特徴を持ちます。過保護な親とかモンペとかがそう。

これが戦後日本の「見たくない現実から目を背ける」という状況と一致し、戦後日本社会の様々な矛盾を温存し続けています(安全保障やメディアなど)。

出典:宇野常寛『母性のディストピア』集英社、2017年

虚(うつ)×虚(うつ)=現(うつつ)が生まれる?

父性と母性という役割を、それぞれ男性性と女性性が担うことで、戦後日本は数々の矛盾を抱えながら成り立ってきた虚構の姿だ、というのが筆者の主張の一部です。

それは「自分の心に嘘をつくことを、私たちは成長過程で刷り込まれてしまっている」という様にも捉えることができます。

「父性が強い女性」だって「母性が強い男性」だっている。
だけどそういうジェンダーロールを強いられる。

そうやって自分の心に嘘をつくことに、多くの人が子どもの時から慣れてしまっているんだと思います。

自分の心に嘘をつくという虚(虚構、虚しさ)に苛まれて、
元気に見えて実は鬱っぽい・・・という人、たくさん出会ってきた気がします。

父性も母性も「虚」であり、それらが掛け合わさって家庭、社会が生まれる。
マイナスとマイナスを掛け合わせると捉えれば、確かにプラス。

ふたつの虚(うつ)から、現(うつつ)が生まれるのですが。

書いている途中で僕は、違和感を覚えてしまいました。

違和感の正体は何だろう

この世界は複雑なネットワークで出来ていて、これを仏教の世界では「縁」といいます。先週のnoteでも「因縁果の法則」について書きましたが。

その複雑さに蓋をするあらゆる態度は、いつか世界の複雑さから、逆襲を受けることになると思うのです。

それは私たちが大人になるとき、
父性と母性のどちらかに蓋をするということも同様に。

この態度が原因で、鬱になってしまう人も多いのかもなどと勝手に思っています。

もしかしたら
虚数 i(父性) × 虚数 i (母性)= − 1(日本社会)
この方が正しいのかもしれない。

虚と虚を掛け合わせて生まれるのは、存在しない幻想なのかもしれない。

ある人はこう言うかもしれません。
この宇宙はVRみたいなもので、虚構のパラレルワールドをそもそも生きているのだから、何を今更・・・と。

しかし、私たちが生きる宇宙(虚構のパラレルワールド)にはそれなりの理があって(因縁果の法則とか)。
そこに僕たちは更に虚構(資本主義、システム社会など)を塗り重ねて、それをまるで現実のように幻想を見せていることへの違和感、とでも言えばよいでしょうか。

父性( i ) × 母性( i ) × 宇宙の理( i )
= − 1 (日本社会) × 宇宙の理( i )
= − i
になるだけ。

結局、虚構(− i )なんですよね。
この世に意味なんてないし,全てが虚構なんだということが分かりました。

では,意味のない世界を生きていてもつまらないし,苦しいだけなのか?

それもなんだか違う気がします。

見方を変えてみます。
先ほどの - i に,もうひとつ 虚数 i を掛けたら、+1
現になるんですよね。

虚構も4つ掛け合わされば,虚構ではなくなるようです。

そこには何かがありそう。

虚構ばかりの絶望の中で,一筋の希望が見えるかもしれない。

徹底的に「遊ぶ」「文化を楽しむ」こと

4つ目の虚構とはなんでしょうか。
それは私たちが「現実(本当は虚構)」として捉えている,今の社会システムや資本主義に対する「虚構」にあります。

それは「遊び」「文化」です。

資本主義や社会システムに「現」を見出してしまうと,遊びや文化は無駄なものに見えてしまうのですが。

むしろ,資本主義や社会システム,宇宙空間ですらも「虚構」であると自覚した上で,徹底的に遊んだり,文化を通してしか見れない何かが,そこにはあるのかもしれません。

その何かこそ「 + 1 (現)」であり,
それはきっと,世界が虚構かつ意味のないものだということを自覚した上で,むしろ徹底的に遊ぶこと,文化活動へ参画することで得られる

「生きることの幸せ,楽しさ,高揚感」

のようなものだと思います。

虚構に対して意味なんて考えても無駄なのだから,徹底的に遊び倒す。

職場や学校の人間関係で,私たちは悩むこともありますが。
それすらも虚構であり,悩んでも無駄なのだから,状況を遊び倒すこと。

意味を求めるとしたら,遊ぶことに求めるのがいいのかもしれません。

人生の大部分を占める仕事も「どれだけ遊べる・文化をつくれる余白があるか」で僕は選びたかった。

お金も,地位も,名誉も,人間関係も,虚構なのだから。

徹底的に遊べる仕事に就いて,初めて得られる「 + 1 (現)」を,追い求めたいなと思います。

そういう意味で,私が「好きなことで遊べる会社」に就職できたのはとても嬉しかったです。

「それには意味がある」と,虚構の世界の夏油傑が語りかけてきます。

「余白」「遊び」「文化」を守る

世界の見方を変え,虚構の世界を遊ぶことにしか意味は見出せないよ,ということを書きましたが。

これってとてもヒッピー的な価値観なんですよね。

何が言いたいかって,遊んでいるだけじゃ世界は終わります(笑)

悪い状況でもそれを楽しんで遊び倒すことと,
悪い状況を解決することの境目。

つまり,問題解消と問題解決の境目は,どこに置くのがよいのか。
虚構の問題を解決することの意味は,どういう状況にはあって,どういう状況にはないのか。

(ちなみに問題解消という概念については,こちらのnoteに書いています)

明確な答えは自分にありませんが,

遊びや文化創作の余白が,自分にあるか否か?

という点が大きい気がします。

仕事にしても,大学のサークルにしても,
遊んだり文化をつくる余白が自分にあるのか考えて,それがあるならその場に留まれば良いし,無いと感じれば別の場所に移る,という判断の仕方がいいような気がします。

だから,世界を虚構と捉えて徹底的に遊びながらも,解決する時は解決する。
そのバランスが大事なのかなあ,と思いました。
遊びや文化の余白を守るための問題解決に限れば,そこには意味があるのかもしれません。

当たり前のことかもしれませんが,実際にバランスを取るのは難しい問題で。

世界に対する見方を変えてもどうにもならない問題(遊ぶ余白が阻害されて,自分にとっての「+ 1,現,幸せ」みたいなものが見えない状態)で,無理に我慢していれば,それは自己犠牲であり,鬱っぽくなりますし。
(これは冒頭の「母性の構造」における「母性」にあたります.その特徴は,包容力・夫に対する献身的な自己犠牲・矛盾や問題から目を背ける点が挙げられます.)

逆に,世界に対する見方を変えれば済む問題(遊びが阻害されていない状態)で,無理に解決しようとすると,組織の空気が悪くなって別の問題が生まれます。
(「母性の構造」における,「父性」にあたります.特徴として,論理性や攻撃性,矛盾を解決しようとする点が挙げられます.)

このバランス感覚を,大事にしたいなあ,と思います。

そしてこのバランス感覚こそ,昨今のケア論における「ネガティヴ・ケイパビリティ」と呼ばれる概念です。

それは,不確実性や矛盾をすぐに解決したり,安易に二項対立で捉えるのではなく,一呼吸置いてそのまま受け入れてから判断する能力を指します。

そしてその基礎は「両性具有的な自己(父性と母性を両立した自己)」によって成り立つと言われます。

筆を進めていたら,いつの間にか冒頭に循環して伏線回収しました()

・遊びや文化,もしくはそれらを守ることにのみ意味を見出せること
・父性と母性を両立し,バランスを取ることの大事さ

についてのnoteでした。

追記

今日一緒に話したお友達の甲斐くんが,この記事を読んでくれて
星野源の「地獄でなぜ悪い」みたいだね,と言ってくれたので,
歌詞を置いておきます。さすが甲斐くんだ・・・。

「イエローダンサー」で完成した後,星野源はポップな音楽性に舵を切ったけど。
彼は虚構を遊んでいるのかもしれない。

病室 夜が心をそろそろ蝕む
唸る隣の部屋が 開始の合図だ

いつも夢の中で 痛みから逃げてる
あの娘の裸とか 単純な温もりだけを
思い出す

無駄だ ここは元から楽しい地獄だ
生まれ落ちた時から 出口はないんだ

いつも窓の外の 憧れを眺めて
希望に似た花が 女のように笑うさまに
手を伸ばした

嘘でなにが悪いか 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ

教室 群れをはぐれた 重い空を行く
生まれ落ちた時から 居場所などないさ

いつも窓の外の 標識を眺めて
非道に咲く花が 女のように笑うさまに
手を伸ばした

作り物で悪いか 目の前を染めて広がる
動けない場所からいつか 明日を掴んで立つ
明日を掴んで立つ

幾千もの 幾千もの 星のような 雲のような
「どこまでも」が いつの間にか 音を立てて 崩れるさま

嘘で出来た世界が 目の前を染めて広がる
ただ地獄を進む者が 悲しい記憶に勝つ
作り物だ世界は 目の前を染めて広がる
動けない場所から君を 同じ地獄で待つ
同じ地獄で待つ

星野源「地獄でなぜ悪い」

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