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怠けている蟻は問題なのか

昨日は写真部で東京に行ってきました。

サムネイルは東洋大4年・Rural Labo副代表の西村くんが撮ってくれました。
本当に切り取り方が上手で嫉妬しました(笑)

さて、昨日の電車の中で少し考えていたことを言語化したいと思います。

組織に属していると、組織の問題というのは頻発します。

しかし、それは本当に「問題」なのかな?という審美眼は、持ち合わせていたいところです。

例えば、1人か2人がみんなで決めたことを守らない場合。

「働きアリの法則」というみんな知っている法則がありますが、
それは人間にも結構当てはまります。

というか、生命体そのものに当てはまる法則のようなものです。

あなたは全員が働きアリでないと、満足できませんか?
怠けアリは1~2割程度、必ず現れます。

人間の自由意志と、それを前提とする責任をあなたが信奉していれば、怠けアリは「悪」「罪」です。

しかし私たちだって、怠けアリになることはその時の「状態」によってあり得ます。

それは心の不調だったり、目の前に好きなものが現れて夢中になってしまう時だったり。

私たち人間や生物にとっては、自由意志だけではどうにもならない時が、必ずあるような気がします。それを問題提起したところで、その人に責任は問えるのでしょうか。

責任を問うとしても、根本的な行動は何も改善されません。

むしろ、これは大した問題ではありません。
だって、生命の法則のようなもので、必然だから。
他の人も怠けアリにいつでもなり得るのです。

それを言葉にして問題提起すると、問題ではなかったことが問題にされ、別の問題を引き起こすことがあります。

例えば組織の雰囲気が悪くなって、みんな元気をなくしてしまったり。
言葉にすることによって、それが言霊となってより深刻な状態に当事者を追い込み、周囲と溝が生まれてしまったり。

よく「問題発見・問題解決能力が大事だ」とか言われます。
大学のAO入試だったり、コンサルの志望理由(笑)とか。

でも、問題を無理やり発見することが、本当に問題解決に繋がるのか?

むしろ、問題をいかに「解消」するか?
目の前で起きている現象は、働きアリの法則のように誰でもなり得るものではないのか?それを解決したところで、また誰かがそうなる可能性が高いし、問題にすることで雰囲気が悪くなって別の組織課題が頻発するだけではないのか?

問題発見が大事だ!という「病理」に苛まれることそのものが、むしろ「問題発見」されることが大事な気がします。

僕たちは大人になるにつれ、人を信頼する方法を忘れてしまっているように思います。誰々が悪い!と言ってその人の信頼残高を減らすのでは、永遠にお互いの相互評価のゲームから抜け出せません。現実世界でSNSのいいね!稼ぎをしているのと同じです。

むしろ、その人が今置かれている「状態」に信頼を置くのが、大切なことなのではないか。

その人の「状態」が悪いと分かれば、その人にその時は信頼を置かずに済みます。
そのために,できる限り周囲の人の「状態」(気分,最近起きたことなど)を気にかけられる人でありたいと私は思います。
私たちはいつも「個人」という単位に信頼や責任を置きすぎて、生きづらい社会を強化している気がします。

組織のみんなを同じ方向に向かせるMVV方式は、少しずつ終わりを告げて、今後は個人がコンセプチュアルになって好きなことをしていく組織がスタンダードになると思っています。少なくとも私はそういう組織を増やす仕事にこれから取り組んでいきます。

クライアントのヒアリングを通して「それは本当に問題なのですか?」と問いを発することで、クライアントの言語的・物語的な病理(ナラティブ・アプローチにおける「ドミナント・ストーリー」)を解きほぐし、もうひとつのオルタナティブ・ストーリーを一緒に発見していく仕事です。

私の仕事は横に置いておくとして・・・
もっとみんなが好きなことをして、それが公共的になる社会をつくるためには、自己を受容し、他者の信頼方法を知る(=他者を受容する方法も知る)ことが入り口なのかもしれません。

アドラー先生はそれを共同体感覚、幸せの条件と定義していることはこれまで何度も述べてきたので、以前のnoteを参照してもらえればと思います。

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