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小説(習作) ささやかな印象と記憶

 部屋の奥のスピーカーに向かって、アレクサ、バド・パウエル、と声をかけると応答があり、すぐさまジャズピアノが流れ始める。もう未来がきてたなあ、SFだなあ、などと思うものである。
 何年前のことなのか忘れたが、隣県の奥地のサナトリウムで療養していたとき、私と同じ入所者の男性がバド・パウエルの名を出したことがあった。たぶんロビーでテーブルを挟んで座り、音楽の話をしていたときのことだ。はにかみ屋の彼は口数が少なかったので、いつもこちらがベラベラ喋っていた。話はジャズに及び、私はそのサナトリウムにiPodを持ち込んでいて、しかし肝心のジャズの音源が少なかった。マイルスとかコルトレーンならあるんだけど、聴く? と持ちかけるとマイルスがいいというので、イヤホンを分け合ってお互い片耳でマイルス・デイヴィスを聴いた。一曲聴き終えてイヤホンを外し、彼は笑顔で「ありがとう」といった。
 そういうわけでバド・パウエルを聴いていれば思うようなところがある。ディスクこそ持ってはいないが、いまかけているのはサブスクからのものなので、定額で聴き放題、気軽に流せるものとして扱っているが、どう気軽に聴いてもやはり思い出してしまう。いま彼はどうしているだろうか。サナトリウムからは出られただろうか。出ていたとしたら、あれからどんな人生を。

 春のさなか、気温は高かったり低かったりと落ち着かないが、私は行くべきところに行くし、やるべきことをやっている。カメラがいまの私の武器だ。ただしぼちぼちと武器の持ち替えをしなくてはならない。パソコンで戦う時期になりつつある。とある手相見の人に、あなたは普通の仕事に向いていない、といわれたことがあり、それはこの春までにはっきりと自覚されたことでもあった。普通ということが無残なほどできない。ゆえにカメラやパソコンを武器としてなんとかやっていくしかないのだが。
 それでも不足するものはあるので、さて、と頭をひねる。

 町の本屋へ行く。客はそんなに多くない。この町では本を読む人間がさほどいないのだ。店内をうろつき、文庫やらビジネス書やらを眺め、ときどき手にとってめくる。平台やその周辺に行けばベストセラーがずらりと並んでいる。あれは印税が数千万という世界であろう。そんだけ売れて、儲かってまんなあ、そんなに儲けて、蔵でも建てますんか。
 そんな内言ののちイライラしてきて帰る。ベストセラーなど、私が買わなくても他の誰かが買うのだ。
 でも、おもしろいんだろうなあ、とも思う。売れている本というのは実に悩ましい。
 かつてこの町には古本屋が五、六件あった。学校帰りにチャリでハシゴして買い漁る古本たちの、金額ではない形での価値を私はよく知っていた。古本屋が私を育てたのだ。
 それらの古本屋はすべてなくなった。見事に一件も残らなかった。この町では仕方ないのかもしれない。または時代の流れのせいだろう。

 作業机の奥の壁にかけてある、フェルメールの『天文学者』を観る。このレプリカにいくらでも力をもらってきたものだ。勤勉、知性、探求、情熱、およそ私にあってほしいものはこの絵に描かれてある。何年も、何度も眺めてきた絵だ。飽きがくるかというとそうでもないのが不思議であって、私はよほどこの絵と相性がいいのだろう。絵の中の学者が着ているのは日本風ガウンというもので、当時交易していた関係から現地に流れていった着物であるらしい、と、真偽はわからないが、ありそうな話として縁も感じる。
 今日もこの絵を拝んで作業をする。あなたのようになりたいと拝むのだ。

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