道(レール)を踏み外したくないと思いたがるが、道なんかそもそもない。 それやってる限り恐れからの余計な不安という決して触れることのできないものを感じ、時に人は外部の目に見えないもの;例えば’神的なもの’に依存してしまう。歴史を見ればそれらフィクションに気がつく。 外側の情報にコントロールされた状態が依存。神社に行っても奥には鏡がある。 先祖代々’自分を見てみろ’と言っている。正解はなく答えがあるとすれば外にはなく、自分の中にあるということかもしれない。 答えは自分
共振しない限り、現象は起きない。 微細な共振でぶれない人になろう。 人は苦楽を避けられない。どう苦を受け入れるか。受け入れたとき、人はブレない。 微細な振動が大きなものを育ててくれる。 言い換えれば人生は幸福の連続ではない。 そして幸運の連続それ自体は宝物ではない。 苦楽をどう受け入れるかが、人間の価値につながる。受け入れると磨かれていくから。 そうすると苦楽はあるが、怖いものがなくなる。怖いものが来たとき素直に怖いと言える人は強い。 今は素直な姿勢で改
お金は使い方や捉え方により競争から来る格差や、不安を生む負の側面があり、ドルの様に不安から増やし過ぎると、’インフレ’としてお金の価値は下がる仕組み。 しかしお金を便利な道具として理解している人がいる限り、ドルや米国債の乱高下や混沌はあっても金融崩壊という名の社会崩壊は起こらない。 元々人類は物々交換で価値交換をやっていた。お金という概念は元々なかったことを思い出し始めている。 だからある一定の貨幣を刷り続ける様な不自然な状態は続かない。自然な形に戻るだけで、そんな時期
若い頃の旅人へ言いたいのは、お金が無くても心まで貧乏になるな。中年の旅人へは、お金があってもいつのまにか心が貧しくなっていないだろうか、確認して欲しい。 正しいとか間違いとか、良いとか悪いといったジャッジは二元論に行きつき対立させる構造を生んで来たが、実は誰かが作った’正解’というものは存在しない。 究極は戦争まで行くこの二元論。戦争の原因はこのニ元論だった。 外から入ってくる情報に依存するのではなく、自分の内側にある和を尊んでいた事を思い出し、ほんとうの豊かさを
全ての素粒子は波。波は波及するので一人一人の想いが小さい、大きいは無い。だから自分の意思を通し、無理に行動しなくても良い。それよりも言葉の粒度を上げて一人一人が使い出すようになると解像度が上がり現実をクリアにイメージ出来る。そうすると想念が現実化するスピードも上がり、希望につながる。個のカを信じよう。 ‥お金をじゃぶじゃぶ刷り、欲望のまま肥大化し、物質的なものを求めた方向に経済は向かった。戦後資本主義の権化であるバンガード、ブラックロック、ステートストリートなどの大企業の株
この前まで葉は無かった古来からある巨木に見事な新緑が美しい。 これまで権威、こうしなきゃいけない、とかしちめんどくさいことがたくさんあった。 自分は権威を恐れ、無意識のうちに権威をどこか求めていたところがある。その権威に認められれば、箔がつくのかと錯覚していた様な状態だった。またそれを目指さなければいけないと言う様な縛りがあった様な気がする。 そろそろ、それが無くなる。 これまで権威づけてきた存在、機構が力を失って行く。 なぜか。 それは生き方、好み、様々な思いがみん
競う事や争う事、競争について考えていた。ここ数年は特に違和感を感じていた。昭和の時代では幼少の頃から’かけっこ’で順位を競う教育を受けた。しかし人には競争を好まない穏やかなタイプと、競争が無いと生きていけないバトル好きなタイプが今の世界には共存している。 縄文時代の武器らしきものは出土されず、争いの痕跡はなかったという。今、日本人はその様な世界を思い出せ、いや、忘れたとは言わせない、言われている。 大多数が競争を好まない穏やかなタイプ。バトルがないと生きていけないタイプ
音楽で素晴らしい気分になれる。 自分の好きなことをやり、いい影響を他人に与えながら地球を楽しむ。 太陽は完璧に近い丸い形をしているらしい。 青い地球も今でこそランドサットから見れば丸く見えるが実は豊かな海洋の水が無ければいびつで、でこぼこな形をしているという。 でもそんないびつな形をしている地球が大好きだ。人もいびつで完璧な人なんておらず、それぞれ歪んだいびつな形をしている。 人は本能的に好き嫌いがあるがそれを表に出していいことはない。愚痴を言ったり悪口、欲望を赤裸々に
暖かい日に突如空気が冷え、次第に祈りの春分の日に鳴り響く暴風と雷。そこから連想するのは大きく価値観が変容する時の’破壊と再生’だ。まさにタロットカードのタワーの状態。空気中の氣がぶつかり合い分子が激しく動いている感覚。 それは会話やコミュニケーションをしている時に発生する。意思を感じる。何か怒りの感情が込み上げてくる時に雷が落ちる。突風でロールカーテンと花瓶が衝突し割れる。古い価値観に指示されたPCのフォルダは開かない。 変わる時、雷は落ち、終止符が打たれる。そして新しく
自分の感情をより丁寧に見つめていこう。 恥ずかしかったこと、傷付いたこと、トラウマ、違和感などのネガティヴな感情にこそ丁寧に向き合う。深く掘り下げる。 そこでカッコつけない。 素直な姿勢でこれまでの経験を受け入れ、その上で過去の自分を肯定する。純粋なワクワク感を思い出す。 そこには ‘何のために’や’意味’や’義務’’損得’や’比較’も無い。’順位’や’競争’も勿論ない。 そうして偽者の自分や、違和感を感じる環境から卒業し、嘘のない本来の自分らしさを取り戻そう。そうし
欧米のGODは神の様に崇められる’人’であり、日本の神は’自然’。 原爆投下後、数年草木や桜など咲かないと言われていた中、草木や桜が芽吹く国。 世界とはどうも山、海の土と水、菌が違うのが日本。菌は神。磁場の高いところに神社がありその神社に口かみ酒がある。そして菌を腸で共有し仲間の絆が出来た。そして祈った。 心や気がなく、形だけ残ったおかしな世の中になると経済が疲弊し、そんな中目覚めませんか?と2011年に東日本大震災が起きた。 暴動を起こさず静かに協力し行列を成し、世界的
昨夜に降ったらしい雪は止み、陽の光と雨が交わり今にも虹が出そうな午前。 お気に入りのリールでは旅人がインド・ガンジス川の朝日をじっくり見せてくれる。 一方、事務所にはいまだ設置されている’電話’。時が止まったかのように一切鳴らない。 久しぶりに’湾岸’エリアを歩くとオールバーズの靴が軽やかで心地よさを手に入れたと実感し感謝する。 運河の向こうに芝浦、左手に晴海、右側には勝鬨の新しいタワーマンションが新しく上棟していたが、それよりも空の美しさが数万倍も美しく感じる。
チケットを取るのを苦労したり、なかなか進まない時、楽しさが倍増するときがある。 スムーズに進まないことも、かえって面白いと思えるときがある。簡単に行くとあっけない。 トラブルさえもワクワクする状態を感じた事がないだろうか。 次々とミッションを乗り越え達成感を味わうゲームのような感覚。 そのまま進むと仲間と出会う。助けられて、助けるの繰り返し。そこには感動があり喜びがある。 魂の存在を知ってしまうと死への恐怖が消え今を楽しむ事ができる。自由になれる。魂の存在を知ってい
自分の無限の可能性を信じる事。 何か思い浮かぶという事は、それができるから思い浮かぶ。全部意味がある。ふと思い浮かぶサインを見逃すな。 小さいものでも叶えたいものはあるだろうか。 心に蓋をしていないだろうか。 周りに合わせます、ではなく自分がどうしたいのかを大切にしよう。そうすると叶えたいものを思い出せる。 他人と同じ事が思い浮かぶわけではない。 膨大な潜在的な意識を無視していては可能性を味方につけられない。 自分よりエライ人の言うことを優先して生きていないか?それでは
雨が降り風が吹き星を感じ、日はまた昇る。その地球上に存在する人間は、祈りという想像をし、物事を創造する生き物である。それが古来の日本人には生活様式の中で出来ていた。 祈らずに何もしないでは、作物が実らない。自動的にご飯が口に届くわけではない。想像して住居やビルが建っている。’こうしたいなぁ’と祈ることで世界が変わる事を知っていた。祈りが現実化するという科学的な事を太古からやっていた。 これはいわゆる宗教とは呼ばず、生活様式である。一神教的宗教感は西洋史観の中でできた。やが
電力設備故障の影響で何時に発車するかわからない電車。そこでは座りながら仲間と談笑するご高齢者。それで良いのだ。予定がなけれ何時に着いたって良いのだ。そう、人生は焦らないこと。 職場という空間と家を行き来する行動を’通勤’という。その行動が木漏れ日の中、少し薄れつつあるように感じた。 頭ポンポンしたどこかの市長が訴えられる。 その市長は驚いたことだろう。 今、昭和や平成の常識は令和で許されず、権威や名誉は持ちすぎると事故を起こし腐る。居座らず、ある時になったら執着を捨て、免