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新選組発祥の地 新選組隊士と夏目漱石のつながりなど 【幕末歴史散歩】

 自分では覚えていないのですが、幼稚園に入る前から、日曜の夜は父と二人、大河ドラマを観ていたというので、生まれついての歴史好きなのでしょう。特に、敗者や悲劇の人、滅び去った者への思い入れが強く、幼稚園児の時には、源義経や弁慶をあわれんで、「頼朝ペケ!」と怒っていたそうです(これも自分では覚えていない)。

 その後、地元の英雄である小楠公・楠木正行への興味を経て、小学校の高学年になると、幕末に興味が移りました。通っていた塾の図書室がとても充実していたんですね。「中学受験は、読書も大事」という話を「中学受験は、読書さえしていればいい」と勝手に脳内変換して、図書室にある歴史の本を読みまくっていました。
 中学生になると、幕末愛が更に強まりました。幕末期の中心地だった京都に通学していたからです。友達と河原町(京都市の繁華街)に遊びに行っても、ビブレではなく、坂本龍馬遭難の地を探そうとしたり。清水寺の近くには、千人以上もの幕末の志士たちが祀られている霊山墓地があるのですが、暇があるとそこへ行って、石碑に書かれた志士の名前を眺めたものです(なんて変わった子だったんだ…)。

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 幕末は、大きく見れば、最小限の犠牲で新しい時代に舵を切ることができた時代だと思います。徳川家は滅んでいないし、江戸/東京も戦火を逃れました。ただ、それを個人に落とし込むと、勝者のいない時代、多かれ少なかれ、皆が傷を負った時代だという気もするのです。明治維新の主な担い手であり、勝ち組であったはずの薩長土肥(薩摩・長州・土佐・肥前藩)にしても、幕末と明治の最初の十年までに多くの人材を失っています。--そんなところが、敗者に肩入れしがちな私の心に響くのかもしれません。

 今回、取り上げる新選組は、京都守護職・会津藩主松平容保の下で京都の治安維持にあたった組織です。局長の近藤勇以下、試衛館という剣術の道場に集う男たちが、新選組の母体になりました。
 新選組の母体になった試衛館は、どこにあったか諸説あるのですが、新宿区の教育委員会は、2004年に(大河ドラマ『新選組!』放映の年)、市谷甲良屋敷=今の市谷柳町25番地にあったとして、記念碑を建てました。

マンションのそばにある記念碑。住民の方は迷惑でしょうね。

 新選組局長の近藤勇は試衛館の道場主、副長土方歳三、総長山南敬助、組長の沖田総司・井上源三郎は試衛館の内弟子、組長の永倉新八・斉藤一・藤堂平助・原田左之助は試衛館の食客でした。
 彼らの中で、近藤・土方・沖田・井上は実家同士のつながりも深く、明治期から現代まで子孫が積極的に発言していることもあって、新選組以前の経歴なども詳しくわかっています。
 また、永倉新八も、維新後も生き残り、新聞に新選組時代の思い出話を語り残しているので、松前藩の上士だったことがわかっています(北海道にルーツがあるので、『ゴールデンカムイ』でも活躍しています)。
 それに対して、山南敬助・斉藤一・藤堂平助は前歴がよくわかっていません。斉藤なんて、大正まで生きていたのに、過去を語らなかったので、本当に試衛館の食客だったのかどうかも不明です。大河ドラマの『新選組!』以降、各地の新選組ファンが寺の過去帳その他を調べ尽くしているので、この先も彼らの前歴が判明することはなさそうです。

 そんな中で、食客の一人、原田左之助は、伊予松山藩の中間として藩士・内藤房之助の家で小使いをしていたことや、暇な時には内藤家の子どもと遊んでいたこと、利かん気な性格で中間仲間に吊し上げられていたことなどかなり詳しい話が伝わっています。左之助には妻がいましたが、夫の前歴については語っていませんし、中間は、武士階級の最も低い身分なので、藩の記録などに名前が残ることもない。左之助の前歴が伝わったのは、仕えていた内藤家の息子が、後に史談会で左之助の思い出話を語っているからです。

 いつだったか、史談会の速記録を読みながら、「この内藤素行って人、歴史好きのおじいさんだったのかな? 左之助のことを史談会で長々と語ったりして」と夫に話したら、夫は「内藤素行って、正岡子規の弟子の俳人だよ。結構有名だけど?」と驚いていました。夫は、文学には全く興味がないのですが、司馬遼太郎さんのファンなので、司馬さんの本に登場する事件や人についてはすごく詳しいんですね(子規は『坂の上の雲』の重要登場人物)。なので、内藤素行(鳴雪)の経歴も熟知していて、俳句では子規の弟子だが、漢詩では子規の師匠だとか、明治期に藩の寄宿舎の監督官をやっていたので、松山藩の文学者(子規や高浜虚子など)に一目置かれる存在だったなどと教えてくれました。『坂の上の雲』にも登場するようです。
 原田左之助が遊んであげた子どもが、正岡子規の弟子だったなんて、歴史ってどこでつながるかわからないなぁと思ったものです。

 この話には続きがあって、去年夏目漱石の作品について調べていた時、『吾輩は猫である』のウィキを見ると、登場人物の一人、牧山についてこう書いてありました。

静岡在住の迷亭の伯父。漢学者。赤十字総会出席のため上京し、苦沙弥宅を訪問する。丁髷を結い、武士の暗器・鍛錬具である鉄扇を手放さない、まさしく旧幕時代の権化のような人物である。内藤鳴雪がモデルとされる。

Wikipedia

 子規だけではなく、夏目漱石とまで知り合いだったんですね。新選組の原田左之助ー内藤素行ー夏目漱石と交友関係がつながるなんて、月並みですが、世界は狭い。

 新選組発祥の地・試衛館の跡地は地下鉄牛込柳町駅から徒歩三分ほど。夏目漱石の終焉の地である漱石山房記念館も近くにあります。


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