僕のピアノ修行ハンガリー珍道中1989No1


※このころはまだインターネットSNSが全く無い時代で、連絡手段は手紙もしくは高額な国際電話のみでした。


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飛行機というものは全く落ち着かないものである。そもそもこのような大きな金属の塊が宙を浮いていることが僕には全く理解できない。
ソ連製の飛行機にはサービスというきめ細やかなものは存在しない。あったとしてもサービスとういものにたいして皆が記憶喪失になったとしか考えられない。
「コーヒーかお茶どちらがいいですか」
という質問の答えに英語で答えようとしていた。
大柄のCAはこちらが答える前にすでにプラスティックのコーヒーカップにお茶ではなくコーヒーを注いでいた。
僕はそのCAに
「砂糖をもう二つ」
と言ったが通り過ぎてしまった。多分この人が悪いのではなく、ソ連製のこの飛行機のジェット音で聞こえなかったのだと諦めた。
飛行機の窓がカタカタいうのは当たり前なのだろか。。
何ヶ所かの窓がリゲティの曲のようにランダムに響いている。
カタカタ..カタカタ.......カタカタ

ソ連製アエロフロート645便のゲートの前にはチケットをもぎるために2人の日本人女性職員がいた。アエロフロートの日本人女性なのにCAの服をきちんとと着こなしていた。
彼女たちはチケットの点線にそって端を切り取りっていた。

「行ってらっしゃいませ、良いご旅行を」

とは言っていたが、今思うとあの2人はキャップを深々と被り笑顔というものが無かった。
このCA達も仲間だったのだという事は重々分かっている。
2人の視線は客の目を一切見ていない。
アエロフロートという組織に入る過程において、サービスや笑顔を諦め、客という概念を忘れ去らなければなはないという訓練を受けているという事を揺れる飛行機の座り心地が悪いシートの上でうっすら理解した。

モスクワ行き645便
何故か大化の改新が頭をよぎった。

音楽大学卒業式の1週間後に何故このようになっているのかを話しておかなければならない。

僕は子供の頃ある一冊の写真付き書籍を毎日の様に眺めていた。
タイトルは安川加壽子著『ショパン』。その本には、ショパンの生家、ショパンが生まれ育った家の外観、ショパンが生まれた際の産湯に浸かった場所、ショパンが弾いていたピアノなどの写真が事細かく掲載されていた。
小学校低学年の僕はここへ行くと、すなわちポーランドへいくことを決めてしまったのだ。

その熱意は変わることなく、
高学年ではその気持ちはいっそう強くなった。
高校、大学では当たり前に留学するものだと思い込んでしまっていた。
ただ、一つだけ大きく違ったのは留学先である。
実際留学となると学費や仕送りの問題があった。
そして僕にとって重要だったのはその国がどれだけのピアニストを輩出しているかだった。
当時、僕の調べでは圧倒的にピアニストを輩出していたのはソ連のモスクワ音楽院であった。だが、政治的な繋がりがないと受験は出来ないということでモスクワ音楽院はかなり早い段階で排除せざるを得なかった。

次に多くのピアニストを育てていたのは、ハンガリーのリスト音楽院であった。
また幸いにこの大学には数人の日本の大学の先輩も留学していた。その中に学生時代大変良くしてくれた先輩もおり情報が得やすかった。
彼とは何度も手紙のやり取りをした。その手紙の中には、ハンガリーではどんなピアニストが活躍し、またどのような指導者がいるのかという事がとても丁寧に書かれていた。

最終的にハンガリーのリスト音学院の試験に臨むことになった。

To be continued

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