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2月29日 サボる

 今日はもう疲れた、毎日十五時くらいに、そう言っている気がする。特に今週は疲れるのだ、なぜなら今週は、現場近くにホテルが取れなかったせいで、高速で一時間の場所から現場に通っているからである。
 一月半ばに團さんが事故を起こした現場は、当然ながらしばらく工事は中止だ。ずっと現場近くの特設事務所でナントカの書類やら、発注者との会議やらをしている。朝は七時から、夜は残業をして毎日二十一時か二十二時まで仕事をしているものだから、体がすっかりそのペースになっており、十五時くらいからエンジンが本格的にかかり始めるようになった。
 そのエンジンが始動した音が、今日はもう疲れた、だと解釈されたい。
 篠宮が隣で、そうですね、と言ったような気がする。篠宮はパソコンの画面からいっさい目を動かさず、俺も疲れましたもん、と今度は大きめな声で言った。眼鏡をかけているせいか、事務所メンバー最年少でいつも馬鹿にされる役回りばかりしているせいか、今まで気がつかなかったが、かなり鋭く大きな目をしている。本人はひとえまぶたを自称しているが、延々とつづく長時間労働の疲れ目のせいか、平行の綺麗な二重が作られ始めていた。それに、眉は凛々しく、相当精悍な部類の顔だと感じた。いつもみたいに、あけすけに馬鹿みたいなことばかり話さなければ。

「すまんが、團の判子を買ってきてもらえないか。」
 疲れましたもん、の問答に被せるように、いつも通り疲れてかすれた声で團さんが切り出した。團の判子、略してだんごじゃないか。團、という姓は珍しく、普通に買いに行ってもないことが予想される。三人に共通したその予想が、さらに場を疲れさせた。結果、三人で近くの文具店に電話をかけて、團の判子があるかを事前に尋ね、あったところに私か篠宮が狙い撃ちで行ってみることにした。
 ほどなくして團の判子、略してだんごは、簡単にみつかる。篠宮が小さく、じゃあ今からうかがいますね、と言ったことで、見つかったことを察した。
 今日はもう疲れた、から、外に出て気分を変えたい。なるべく自然になるように、外にいきたい気持ちがバレないように、判子を買いに行く係を引き受ける。
 事務所の外に出て、車に乗る前に軽くのびをする。一週間前に春の夕暮れを呈していた空は、しっとりと重く冷たい曇り空になっていた。こんな日に外でサボってもそんなに楽しくなさそうだが、せめてもの楽しみと、車のなかで好きな音楽を流しながら、だんごが売ってる文房具店にゆっくり向かう。車のステレオからはゆったりと、愛の讃歌が流れてきた。赤信号も、右折待ちも、今は広い心で眺めていられよう。

「すみません、あの、ここに無い判子はもう無いんですよね、在庫も。」
「ええ。」
なんということだ、判子を陳列している回転式の什器を念入りに眺めたけれど、團のところにぽっかりと穴が空いていた。團なんて、あの團さんと三井の琢磨、音楽家の伊玖磨以外にいるのだろうか。失意のうちにふらふらと文房具店を出たら、外ののぼりには山本文具と書かれていたことに気づく。なんだ、ありふれた名前をしやがって。さっきの、ええ、という返事をしたふちなし眼鏡の中年女性、お前が山本か。
 念のため、向かいのホームセンターにゆっくりと向かうが、比較的小さな什器があり、一瞬でだめだと悟る。た行は田中か田村、あっても竹内、武田くらいだ。さらに隣のショッピングモール内の百均まで行くが、そもそもハンコの取り扱いをしていない店舗であった。この時点で、すでに事務所を出てから三十分は経過していた、これはもう本格的に少しのサボりを挟もうと踏ん切りがついてしまった。だんご探しの疲れにより、自分を正当化する。
 袋無料のコンビニに向かい、ホットコーヒーだけ買う。他のコンビニがコーヒー一杯の値段をを百二十円にするなか、やはりここの個人商店化したドンキホーテのようなコンビニは百円を貫いている。少し探してから紙カップを渡してくれた店員さんは、紫色のショートヘアーの女性。あの店長らしきミルクティみたいな髪のおじさんは、今日はいないようだ。
 車に戻ると、少しだけ雨がぱらつき始めた。窓ガラスについた雨粒越しに外の景色が大きく映るのを眺め、エンジンもかけずにぼーっとする。コーヒーが少し冷めて、酸味を呈し始める直前くらいの温度になったら二口だけ飲んで、團さんに電話をかけ始めた。
「ええ、山本文具にない。取り置きしてるとかじゃ無いかなあ、おい篠宮どうなんだ。」
團さんは携帯を机に置き、篠宮に問いかけたようだ。それにしても、電話越しにきこえる会話というのは、どうしてこうも安心感があるのだろうか。子供時代、昼寝から覚めた時に親や先生の声がしたかのような、無関係でありながら優しい響きをもっている。今日のような、春先の寒い雨の日なんかはとてもありがたい。
「あ、すみません電話かわりました、篠宮です。あの、山本文具に取り置きしてもらっているみたいで、今さっき電話して確認しました。」
左耳から現実が戻ってきた。かしこまりました、と元気めに返事をして電話を切り、急いで山本文具に車を走らせる。
 再び山本文具の店内に入ってきた私を見て、縁無しメガネの中年女性が小さく驚き、目を細めて眉を引き下げ、すーみーまーせーんねえ、と抑揚たっぷりに言った。手元に、だんごが立てて置いてあった。だんごは三百八十円、判子を百均で買うものだと思っている人には高いかもしれないが、珍姓の人には当たり前の値段だ。作中では書いていないが、私もまた三十年近く珍姓として生きているのでよくわかる。
「團さん、珍しいですねえ。私はね、結婚する前は三宅だったんですけど」
少し照れながらそう言ってくれた縁無し眼鏡の女性もまた、珍姓だった。山本文具には友達に誘われてアルバイトで入っており、血縁はないらしい。

「すみません、戻りました。だんごありましたよ。」
事務所の扉を開けながら、言い終わりかけるくらいで失敗に気づいた。篠宮はただポカンとして、え、え?と私と團さんを交互に見る。團さんは眉間にいったん皺を寄せてから一瞬真顔になり、目尻からあごに優しい表情皺を走らせ、ハッと小さく笑った。

「そういうことね、だんご、もらうよ。お疲れ様。」

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