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どうして女性差別と戦うの?

  (イラストのひまわり、弁護士バッジのモチーフです)
 今、私は女性の権利の問題に取り組んでいるのですが、実は昔からフェミニストだったというわけではありません。(ちなみに、今もフェミニストと名乗ってません)

「なんで伊藤さんは弁護士になったんですか?」と小島慶子さんとの対談で聞かれて、図らずも生い立ちをこの本で少し語ってしまったのですが、


 小さいころはとにかくおとなしくて引っ込み思案な子どもでした。
 そもそも前に出たい、という要望がありませんでした。
 だから女性だから差別されるというより、おとなしいから損をしている(自分ではそうは思わなかったけれど通知表に書いてあったかな)という感じだったと記憶しているのです。
 できれば前に出ることなく無難に過ごしたい、誰の目にも止まらずに、楽して暮らしたい、そんな性格でした。
 手先が大変不器用でしたので、女性だからというより、自分の特性として生きづらさがあったように思います。
 それでも高校、大学と性格がどんどんかわり、ようやくやりたいこと、やれることが増えていきます。特に早稲田大学は自由な大学でしたし、大勢の男性の中で女性は少数だったですし、法学部という、権利について勉強する場で権利意識にも目覚めてしまい、やりたい放題だったと記憶しています。ですから、女性差別に遭遇する機会がありませんでした。
 しばしば「今まで女性差別を経験したことなんてない」と語る女子学生がいてけしからん、とフェミニストの方々からの批判を聞きますが、私は典型的にそのようなけしからん鈍感な学生だったことでしょう。
 これで就職活動をすれば、きっと挫折をしたのでしょうが、就職活動というのは諦めていました。なぜなら私は不器用でしたし、コピー取りやお茶くみ、経理等の仕事が苦手でした。当時はバブル絶頂期で均等法は施行されたばかり。そして、ワンレン・ボディコンの時代でした。
 バンカラな早稲田の自分の周辺は通用しても、ワンレン・ボディコンとはほど遠い。ワンレン・ボディコン・ハイヒールの、やる気に満ち溢れた勝気できれいな女性たちが総合職を目指している外の世間は無理、きっと社会でエリート女子どうしの熾烈な女性の戦いがあるであろう、そんな場面にはちょっと耐えられないな、と思ったのです。
 きっとその戦いの漁夫の利を得るのは男性たちや企業であり、女性は頑張りすぎた後で体を壊してやめてしまうだろう(特に私のような根性のない者は)と思ったのです。
 私はもともと小さい時から勝気な少女ではありませんでしたし、不器用でした。そんな私が差別されずに生き残っていくには資格、司法試験しかない、ということだったんですね。司法試験は厳しい試験ではありますけれど、自分は世間一般の競争には到底耐えられず、そこを避けてマイペースでいきたい、数年間しゃにむに頑張って資格さえ取れれば、という自分なりの生存戦略があったと思うのです。
 私は受験勉強は苦手ではなく、司法試験は何とかなると思ってました。

 ところが、思惑は外れ、私は二回連続で一次試験で落ちます。その時がいわば初めての社会における挫折でした。
 気が付けば、大学を卒業した無職のプー太郎。自分を見失いました。そんな時に支えてくれたのが、中学高校時代の友達でした。
 励ましてくれるのです。
 
 以前、ラジオのインタビューを受けたときに話したのですが、


  大学を卒業して、仕事もなくて、プー太郎で勉強していて、、、本当に受かるかどうかわからないとうい時は、絶望的な気持ちになりました。その時、「自分も弱い存在なんだな」と思いましたね。そんな状況の中、周りの友達が励ましてくれたのがとても大きいかったです。だから、「自分は弁護士になったら人を励ます人になろう」と思いましたね。


http://hrn.or.jp/media/1400/



 特に言われたことが、「弁護士になってほしい。試験にちょっとくらい落ちたからっていいじゃない、がんばりなさいよ。私たちさ。。。社会ですごく差別されて本当に悔しいんだから。大変なのよ」「女性の地位が低いって、社会に出て初めて愕然としたよ。でも自分にはこの環境、何ともできない。だから、弁護士になって。こういう状況をなんとか少しでも変えてほしい」ということ。その時に、自分の資格というのは単に自分のものだけじゃなくて、他の人の願いをかなえることでもあるんだ、という思いになったのだと思います。


 このことは結構私の中では大きかったと思います。
 しかし、その後、弁護士になってからも、特殊な世界、当時は司法試験合格者500人時代で、新人は割合大事にされ、私のような若手の女性弁護士は差別をされるどころか優遇されました。だから私は米国に留学もすることができ、自分の夢も数々かなえてきました。
 2006年にNGOヒューマンライツ・ナウを立ち上げたあと、私は手持ち事件を見直し、それまでかなりの比重を占めていた刑事・少年事件をほぼやめる決断をしました。例外は死刑えん罪の名張事件のみでした。
 そして民亊に絞り、打ち込む事件としては女性の権利や離婚に関する事件をメインとすることにしました。刑事や少年事件も対応していては、NGOと両立することがとても難しかったからです。その時はとてもさみしい気持ちもしましたけれど、NGOの仕事に集中するために決断したのです。
 こうして女性の事件を専門とするようになり、私はある時気がつきます。
 クライアントとして私の前に立ち現れる女性たちの多くは私よりずっと優秀で、賢く、器用で、美人で、聡明で、真面目な努力家です。
 ところが、そうした女性たちが理不尽に差別され、暴力を受け、洗脳され、依存させられ、搾取され、心身共に深く傷ついているのです。

 翼がおられた女性たち、女性であるがゆえに。女性たちの身に起きていることに私は心の底から怒りを感じました。
 私は自分の資格によって本当に差別から守られてきた、ということがまざまざとわかったのです。
 よく美人は得だといいます。そして不美人は差別されて理不尽な思いをすると。しかし、私が見てきた現実はそうでもありません。美人、不美人、誰かによっていずれに分類されようが関係なく、女性は本当に等しく見下されている。
 向上心があり、好奇心旺盛な素敵な女性であるほど、セクハラや性暴力に会いやすい、そして騙されて搾取されやすい、換金されたり性的に搾取される、利用価値があると踏めば利用されてしまうのです。

 社会の入り口にたち、やりがいのある仕事・やりがいのある人生を求める真面目で真摯な女性たちにとって、性被害がどれだけその人生を台無しにするのか、怒りしかありません。

 そうした性被害を誰にも言わず、職場を黙って離れ、夢を失う女性たちがいるのです。この社会は差別に満ちている。そのせいで人生を奪われる女性たちは後を絶ちません。

 だから、これまで資格によって守られ、その資格によって不当な現状に異議申し立てのできる立場にある私は女性たちに寄り添っていかなければと思っています。

 もうひとつ、1997年、東電OL殺人事件が起きた時のことを私は衝撃をもって覚えています。
 2つの顔をもった被害女性。慶応大学経済学部を卒業し、東京電力に初の女性総合職として入社した彼女が殺害されたその時。
 彼女が亡くなったというのに、犯罪で殺害された犠牲者だというのに、メディアは切り刻むように彼女について書きたてました。面白おかしく、プライバシーをえぐり、愚弄し傷つけたのです。

 なぜ女性がレイプされ殺害されたのに、社会は女性をセカンドレイプするのだろうか。
 総合職で働いていた女性が30代で未婚であったこと、性的な仕事をしていたことについても本当に心無いことを言われていました。多くの人はそのことを人権問題だとすら思わなかったようですが、私はこれは女性の人権問題だと思いました。
 私はこの社会はあまりに差別的で残酷だと思いました。
 あの時、自分に力があったら何か言えただろうに、自分は弁護士でも特段の発言力もなく、ただ理不尽さを抱えていたのです。悔しい思いでした。
 でも、それからインターネットの時代になり、私の意見をSNSやブログ、ヤフーやメディアなどで発信する機会が増えました。
 私は、何かあると、あの理不尽な思いを思い出し、試練に立たされている女性、社会から理不尽に叩かれている女性がいれば、そばにいて助けたい、ひどい報道や風潮があれば、専門家としておかしいときちんと異議申し立てをしたい、と思うようになり、それが今につながっていると思います。

そんな私の近著はこちらです!許せないことを一冊の本にまとめました。

 何だ、伊藤さんって大したことないね、苦労もしてないし、壮絶な体験も修羅場もない、上野千鶴子さんとか、伊藤野枝さんとか凛々しいフェミニストとは大違いでうすっぺら、と思われたと思いますが、はい、そうです。

でも、そんな自分でも、できることはあるし、役に立つことはあるんですよね。いや誰だって、おかしいことに声を上げる人は、誰かを励まし、誰かの役に立っているんだと思います。

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