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つれづれ

ゆきずりっていい響きだよね



昔の自分が書いた文章をふと思い立って読み直してみたりするんだけど、まるで他人が書いたもののように新鮮に感じる。文章が未熟なところはあれどやっぱり自分の書いた文章だから今でもよく理解できるんだ。

私は基本的に影響されやすいから、鬱っぽいときに書いた文章は読むと時を超えて頭の中に侵入してくる。
実に困ったもんだ。

私には同じような言葉を何度も繰り返す癖がある。口で話すときもそうだし、文章でもそうだ。とっさに別の言葉が思いつかないからなんだろうけど、精神状態が重いときの文章はその特徴が顕著に現れてくる。

童話みたいに同じ構文とか同じ言葉を繰り返すその文章は、読み進めるうちに、脳に圧がかけられているような感覚がする。それはとにかくすごい不快で、読むのを中断すると息苦しさはもっと激しくなる。この感覚は大体文章を読み終わってしまうまで収まらない。しかも、やっと読み終えたあとも、しばらくは言葉にできない虚脱感に苛まれて動くことができない。
他の人が書いた文章は平気だ。でも、自分の書いた文章を読んでいる間だけは、書いていたときの気持ちと一緒に思考が脳に直接流れ込んでくるようなふうに感じる。
その思考の波から逃げる方法は、今のところ読み終わる以外に見つかっていない。

でもここからが面倒くさいところだ。あんなに苦しかったはずなのに、読み終わってしばらくするとその感覚がなんとなく心地よかったような気がしてくる。わさびを食べて、ツーンとするのが収まったあとみたいな感じかなあ。

これが俗に言う中毒性というやつなのか、ガキの私にはまだわからない。

なんでこんなことを書き出したかというと、現在進行形で昔の文章を読んで、この不思議な気持ちを文字にしないではいられなかったからだ。読んでも読んでもなんだか読み足りないので、ここにその文章を写してみることにしよう。
その文章は二つあって、どっちも読んでて息苦しいのなんの。読むのに使うカロリーが異常なので、もしかしたら痩せるかもしれないね。
脳が。



書き写す

不愉快である。軽く動悸もする。何をしても収まる気配がない。不愉快と思ったところで世の中が何か変わるわけでもないが、とにかく不愉快である。
どうして自分は人間に生まれたものか。どうして猫は猫に生まれたものか。どうしてかえるはかえるに生まれたものか。全てに意味がないのだとしたら、どうして神などが命を産み出したものか。
全く自分の考えの及ばない、自分の思いつく限り一番壮大で途方もない神などをも超越するものがこの世にはあるのか。その存在を知ったとき、もはや考えることに意味を見いだせなくなるほどに、全てを凌駕し、覆い尽くすようなものがあるものか。
あったとしたら、考えるという行動は愚かなことなのだろうか。
人間は何も考えずして行きていると言えるだろうか。何も考えないとは死んでいるということか。死なないためには考え続けなければならないのか。何を考えればよいのか。
己の考えの範疇、俗世のことなどすぐに考えがつくか、考えがつかず諦めてしまうことばかりだ。学問など、生まれ持った頭が追いつかなければ考えるだけ無駄だ。それで、ちょっと視点を変えて神についてなど超次元的なことを考えれば、人間ごときがそんなことを考えるなど頭が高いとヒトは言う。
それはすなわち、考えることを放棄せよということだろうか。それは人間は生まれ、そして探求を諦めると同時に死ぬしかないと言うことか。それは、先人より何も進歩せず、意味もなく死にゆくということか。
意味もなく生まれて良いものか。意味もなく生まれて悪いものか。意味もなく生きていて良いものか。意味もなく生きていて悪いものか。意味もなく死んで良いものか。意味もなく死んで悪いものか。

納得できる説教など表面上だけである。あとでそれについて再び考えれば、どんどん疑問が湧いてきて、もう何も信用できないような気になる。しかしそれも、一度限りの人生観である。
物語など書きたくない。現実など生きたくない。臆するものもないが、生きたくなるようなこともない。年頃とかいう言葉で片付けられてしまうこの厄介な汚れのような感情をどうしたらいいのか、誰も教えてはくれないのだ。誰かに話しても逆効果。しかし自分の心にとどめておくには大きすぎる。私が伝えたいことは、物語というフィルターに通すには大きくなりすぎたのだ。
まっすぐに言いたいことがある。物語に乗せてだとか、まどろっこしいことは抜きにして、伝えたいことがある。誰にも何も言われたくもない、聞いてほしくもないが、言いたいことがある。愉快不愉快な物語でもなく、人生を生きるアドバイスでもない。言いたいことがあるのだ。その伝えたいことは、どれだけ頑張っても喉にひっかかって上手く言葉にできないのだ。それでも伝えたいんだ。一刻も早く、この息苦しさを吐き出してしまいたい。それができないのだ。
回りくどい道を通って、そこでいくつもいくつも伝えたいことを失くして、そして残ったホコリのようなそれを散りばめた物語を叫ぶことしかできない。そのホコリのただひとつすらもあなたには伝わらなくて、あなたの頭に残るのは俺の必死そうな表情と、その必死さに似合わない幼稚で拙い物語だけなんだ。お願いだから聞いてくれ。長くて長くて聞いているうちに退屈で仕方なくなるような、代わり映えのしない、理解のできない、まったくもって共感性も面白みもない話だけど、それでもこれは俺の人生そのものなんだよ。大げさって思うかもしれないけど、そんな昔のことって思うかもしれないけど、俺はあなたの言う事一つ一つを馬鹿みたいに信じて信じ込んだ。だから俺もあなたに信じてほしかった。わがままでごめん。自分勝手でごめん。でも本当に、俺の話を聞いてほしい。最後まで、何も言わないで、そのまま聞いていて

ああ、ごめん。やっぱりなんでもないよ。








善悪など個人の尺度であり、許すか許さないかとも言い換えられる。良い悪いなど実はどうでもよくて、それをやって自分に得があるのか、そのあとに襲い来る報復も踏まえたうえでそれでも自分がやりたいことならばなんだってやって良いのではないだろうか。ヒトは自分が殺されたくない、損をしたくないからこそ善悪という一定に決まらないゆるい尺度を作り上げたのだ。嫌われたくなければ、罰を受けたくなければ善悪という尺度にゆるく従えば良い。嫌われても、罰を受けても、やりたいことがあるならすればいい。それを止めるヒトはいるだろう。その矛先に私がなったとしたら、もちろん抵抗するだろう。しかし、ヒトが抗うことのできない、絶対的な善悪というものはこの世に断じて存在しないのだ。ただ、欲に付き従うヒトとヒトが争っているだけだ。たとえば親しい者が一般的に悪とされ、そのあとに大きな報復と罰を受けるであろうことを為そうとしているとする。そして、彼が罰を受けるのが見たくなければ、止めれば良い。彼が酷いやつだと思えば、嫌うが良い。これは悪いから、これは良いから、などと言うことではなく、お前が嫌だから行動を起こせ。お前がやりたいから行動を起こせ。お前に行動を強制するものなどはこの世に断じて存在しない。全てはお前の意思なのだ。善悪というものを盾にして、行動を起こした自分の免罪符にするな。行動を起こしたのは、結局のところお前だ。



あとがき


厨二病&情緒不安定すぎるなあ
これ以上の何かを期待しているそこの健気な読者さんへ。
現実を突きつけるようですまないけど、別にこれ以上のものはなんにもない。本当に。もう全部出し切ってしまった。

この二つの文章とも呼べない拙い叫びは、一年、いやもっと、数年、体感では数十年の時を越えて私のもとに再びやってきた。

きっかけはなんとも単純で、ブラックホールのように果てしなく汚い本棚をやっと片付け始めた時の話だった。

私の本棚にはいつもいくつかのノートが入っている。それを使うのに決まりとかはなんにも決めていない。1ページ目に落書きがしてあって、そのあとは全部白紙のものもあれば、最初から最後までびっしりと使用済みの古びたやつもある。そんなノート群の中から、ひときわ昔に使い切ったノートがひょっこりと出てきた。それも、棚にきれいに並んでいたわけではない。奥側にぎゅっと押しつぶされて、幾重にも折りたたまれて入っていたのだ。
懐かしい気持ちにひたりながら、私はそのノートのページを捲っていった。ほとんどが汚い落書きばかりで、途中には気まぐれに読んでいた本から抜粋した好きなフレーズなんかが散りばめられていたりもした。その中でひときわ目を引いたのが、あの二つの文章だった。

実は、この二つの文章はそのまま書き写したものではない。あまりに読めたものではなかったので、ちゃんと読めるように推敲に推敲を重ねて書いたのだ。それであれなのだから、そのまま引用していたら大変なことになっていたに違いない。

まあ、書き直している最中、時々今の自分の価値観などもにじみ出てしまったかもしれない。しかしそれも一興。この文章を読んだはるか未来の自分が再び推敲してくれることを願おうではないか。そうしてこの文章は成長し、移り変わっていくのだ。

とても楽しみではないか。

じゃ、またいつか会えることを楽しみにしています。しらんけど。

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