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記憶の箱【掌編小説/長すぎるあとがき】

物覚えが悪くなった。
脳の記憶領域が容量不足かもしれない。

そう感じた僕が、「記憶バンク」の利用を決意したのは、35歳の時だった。

「記憶バンク」とは、その名のとおり「記憶」が預けられる銀行で、メモリ内蔵の「記憶の箱」と呼ばれる小さな箱に、自分の記憶を入れて預けるというものだ。

預けられる記憶は、脳の中でも容量を多く消費するといわれる「思い出に付随する感情」に限られる。

蓄積した知識はなくならず、思考力も低下せず、性格も変化することはないので、これまでどおりの生活ができるとの説明だった。

記憶の取り出し作業は簡単で、専用のケーブルで耳と箱とをつなぎ、数分で完了する。

規定により、記憶は古いものから順にしか預けられず、初めてなら0歳からの記憶を1年単位で任意の期間預けることになる。仕組みは定期預金に似ている。

また、任意の期間が終了しても引き出さなかった場合、80歳に達した日に強制的に返還される。

運用も可能だ。運用というのは、他人に自分の記憶を貸し出すことを指し、主に記憶を上書きしたい人に使われると聞いた。

僕は数回に分けて、最終的に15年分を運用付きで預けた。
空いた記憶領域を利用して、たくさんのことを勉強して学んだ。
仕事ではキャリアを積み、趣味にも没頭することができた。
不便さは何も感じなかった。

結局、預けたまま80歳となり、先週15年分の記憶が「記憶の箱」とともに戻ってきた。

歳を重ねると子どもの頃の記憶が鮮明になると聞いていたが、こういうことだったのか、と実感している。

同時に、僕はこんなにも恵まれた思い出を持っていたのだと気づかされた。

また記憶の運用によって、この「思い出に付随する感情」が誰かの役に立てたかもしれないと考えると、僕の人生も悪くないな、と思う。

もしかすると、預けたことで目に見えない財産が増えたかもしれない。
それなら有意義な運用だったといえる。

一方で、最近のことはなかなか思い出せない。
記憶が返還されて容量オーバーになったのだろう。

僕は「記憶の箱」をときどき手に取り、ぼんやりと眺めている。

今ではただの空っぽの箱だ。
でも、この箱には多くの思い出が詰まっているような気がする。


【小説よりも長いあとがき】


お読みくださりありがとうございます。

note をしばらくお休みしておりました ume15(読み:ウメイチゴ)です。

今回の見出し画像と下記の画像は、Instagram で知り合ったアーティスト TAKUMI さんの『outin』という作品です。

TAKUMI さんからの嬉しいお申し出により、このようなすてきな作品をお借りすることができました。

ありがとうございます。

さて、こちらの作品は、わたくしの乏しい知識レベルで表現しますと、「ドローイング(線画)といわれる手法で描かれた抽象画」。
しかし、実際に TAKUMI さんに確認しましたところ、「ドローイング線が主体となった抽象表現をもとに制作された平面的なオブジェ」とのこと。

やはり、制作者に聞いてみるものですね。作品を表現するための、言葉の追究感や重みが違います。
平面的なオブジェか。そう聞くと、平面だからこそ、隠された奥行きがあるのではないか、という気にもさせられます。

わたくし、ドローイングというと、実は最初に頭に浮かんだのは「腹筋」。まぁ、わたくしはだいたいこの程度です。

それでも、せっかくの機会ですので、「抽象的に表現する」とはどういうことなのか、少しだけ考えてみることにしました。

この先、あくまでも私見です。
話があちこち飛躍しますが、日本一の面積を誇る琵琶湖のような広い心で、回収しながらお読みいただけると幸いです。

写実的ではないということは、描く人の「内面的なものを外に出す」、つまり「内面を可視化する」行為、と仮定して考えてみる。

視点を変えると、抽象画を描くというのは、内面を「抽出」する行為なのかもしれない。

では、内面とはなんだろう。

この問題は難しすぎるため、流れの速い川に笹舟を浮かべる感じで、あっという間に通り過ぎようと思う。

内面だから、外面の中。つまりは、「心の中」か。
これは、広義すぎて掴みどころがないな。
もう少し狭義的な言葉を選ぶとしたら、脳内の「記憶」だろうか。
そこから抽出したものが作品。もちろん、それだけではないと思うが。その時の感情とか閃きとか、いろいろなものが複雑に絡み合っているのでしょう。

待て、待て。
笹舟ume1号、あっという間に流されるはずが、すぐに岩場に引っかかってしまったではないか。もっと小さな川で遊ぼう。

よし。その方が簡単だ。
「抽出」といえば、ドリップコーヒー……そうか。

内面を抽出する行為は、コーヒーを豆から丁寧に入れる作業に似ているかもしれないな。

豊富な豆(記憶)の中から、その時の気分で、一種類の豆を選ぶ。もちろんブレンドでもよい。
選んだ豆(記憶)を、好みの粗さに挽く。
コーヒーカップ(画材道具)を選び、温めておく。
ドリップ開始。
少量のお湯を注ぎ、蒸らす。巡らす。短くて長いような待ち時間を経た後、呼吸を整え、お湯を注ぐ。
集中。
無心。
没頭。
芳しい香りは局所から、次第に広範囲へと及ぶ。
トリップからの覚醒。

そうやって出来上がった唯一無二のコーヒー(作品)を、人々は堪能しているわけだ。
ああ、なるほど。ひとり膝を打つ。合点がいった。

そして、そのコーヒーには、社会や環境の中で身につけてきたもの、体験をとおして得たもの、それらから派生する、たとえば心を動かされるような感動、震えるような喜び、心が折れるほどの悲しみ、制御が困難なくらいの怒り、そういうさまざまな感情も含まれていて、その人の味、個性となっているのだろう。

笹舟ume1号、今度はどこへ向かっている? 逸脱の予感。そろそろ「抽象的に表現する」というテーマに戻ることをおすすめするぞ。

あ、でも、わかったかも……。

もしかすると、周りからは「抽象的な表現」に見えるものも、表現者の視点からは、至極、具体的なストーリーやイメージを持つ表現なのかもしれない。

TAKUMI さんの作品がそうである、というのではなく、あくまでも一般論としてのわたくしの想像にすぎないのだけれど。

本日の結論。
「抽象的な表現」とは、実は抽象的に表現している訳ではなく、本人以外には抽象的に見えるだけだ、ということにしておこう。

何の検証もせず、本当のところはご本人にお聞きしないとわかりませんが、素晴らしい作品との出会いは、感情だけでなく、このように想像力をも刺激されます。そして、心に残ります。

続きはまた明日考えることにして、ひとまず、すてきな作品のご提供に感謝申し上げます。

ありがとう。 TAKUMI さん。

こうして無事、笹舟ume1号は本流に戻ることができたのでした(この、どうでもいい笹舟の話を今日は妙に引っ張るな。もしかすると、これは本人だけがわかる、高尚な抽象的表現かもしれない)。おしまい。


©️2022 ume15

見出し画像に使わせていただいた作品の全体像はこちらです。

『outin』は、ジグソーパズルのようにバラバラになります。面白いですよね。まるで記憶の欠片みたい。

TAKUMI さんの作品は、こちらでご覧いただけます。
Instagram:@ t.tunagary 

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