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【読書ノート】孫泰蔵『冒険の書』(日経BP)

学校関係者からは敬遠される本!?

 この『冒険の書』は、今年2月に発売されてベストセラーになった本だ。しかし、学校関係者の間ではあまり大きな話題になっていないように思われる。と言うよりも、この本を手に取ることを敬遠している者が少なくないように感じられるのだ。

 それは、広告や本の帯などから、
(どうやら、学校教育に対して批判的な内容らしい)
 ということが伝わってくるからなのだろう。
 私自身も、数年前までのように公立学校の管理職という立場だったら、この本を避けて通っていたかもしれない。

理論武装した”ゆたぼん”!?

 ・・・そんな私にとって、読み始めてすぐに頭の中に思い浮かんだのは”ゆたぼん”のことだった。

 簡単に説明をしておくと、”ゆたぼん”とは沖縄県に住む少年である。
 彼は小学3年生だった2017年に、学校で一律の教育を受けさせられていることに疑問を感じ、教師の言うことに従う同級生らがロボットに見えはじめたのだという。そして、
(このまま学校に通い続ければ、自分もロボットになってしまうかもしれない)
 と考え、学校に通わないことを決心する。その後は、自称「少年革命家」のYouTuberとして、
「不登校は不幸じゃない」
「俺が自由な世界を創る」
「人生は冒険や」
 といったメッセージを発信しているのだ。

 ・・・著者の孫泰蔵さんには失礼な言い方だろうが、この本の前段を読んだ私の印象は、
「これって、理論武装した”ゆたぼん”じゃん!」
 であった。

(補足をすると、この本の98-99ページには”ゆたぼん”に関すると思しき記述がある。”ゆたぼん”に対しては、そのYouTubeが開設された当初から「学校教育をバカにするな!」「家で勉強するだけだと社会性を身につけられない。それでいいのか?」といった批判が大人たちから寄せられ、炎上状態になっていた。しかし、孫さんはそうした風潮に疑問を呈しているのだ。)

学校は何のために・・・!?

 さて、肝心の本の内容である。

 この本は、
「私たちはなぜ勉強しなきゃいけないの?」
「好きなことだけしてちゃダメですか?」
「自分らしく生きるにはどうすればいいの?」
「世界を少しでも良くする方法は?」
 といった問いを抱いた「僕」が、古今東西の思想家や偉人たちとの「対話」によってその答えを探す冒険をするという体裁をとっている。

 おそらく「僕」とは著者である孫さんのアバターで、これらの質問の多くは孫さん自身が少年時代に抱いていたものでもあるのだろう。
 また、サブタイトルに「AI時代のアンラーニング」とあるように、
「混迷する世界をつくった本当の課題とはなにか?」
「AIの時代に何をすればいいのか? どう生きるのか? 」
「リスキリングってほんとうに必要なのか?」
 などの問いについては、起業家としてAI時代の最前線を生きる孫さんにとっての喫緊の課題でもあるのだろう。

 ・・・やがて「僕」は先人たちとの「対話」によって、
・かつては大人と子どもの区別がなく、小さい子どもも大人と同様に労働をさせられていた。
・しかし、先人たちの働きかけや努力によって、同年齢の子どもたちが通う学校という場所と仕組みができた。そして、学校は子どもたちに均質な教育を施すようになった。
・学校は、社会のシステムに盲目的に従う人材が必要な産業革命の時期には極めて有用なものだった。しかし、多様性が求められる現代において、それは最適ではなくなってきている。
 ということを知るのだ。

世界は自分で変えられる!?

 そして、
・無理やり詰めこむ知識も、仕方なくやる仕事も、AIには敵わない。
・才能や能力などというものは迷信だから、「能力信仰」をやめること。そんなものはAI時代にはまったく意味がなくなるのだから。
・一つの尺度に過剰にこだわってはいけない。
・学びにも仕事にも「遊び」を取り戻すことが大切だ。
・これからの時代には、解決策を出すよりも「問い」を生み出す力が必要である。
・大事なのは、学んだ知識や成功体験を捨て、新たな学びを探求するアンラーニングをすることだ。
・自立とは、頼れる人を増やすこと。
・これからの時代の公共善とは、人類だけでなく「地球をよくしていくこと」である。
・世界をうまく回すための最良の方法は、世界を贈与で埋め尽くすことだ。
 ・・・ということや、
・世界は自分で変えられる。
 ということなどに気づいていくのだ。


学校や社会はすぐに変わるのか!?

 若い読者の中には、この本に勇気づけられる人も多いことだろう。
 いや、孫さんに言われなくても、すでに「冒険」を始めている若者たちは存在する。

 たとえば、今月6日付のニュースでは、富山県に住む現役高校生・淵上理音さんのことが紹介されている。彼女は好きな学問を自分のペースで追究したいと考え、地元の進学校ではなく通信制課程の高校へ進む道を選んだのだ。

 また、先ごろ将棋界のタイトルを独占して「八冠」となった藤井聡太さんなども「冒険者」の一人だと言えるだろう。藤井さんは、遊び・学び・仕事の一体化を見事に実現している。ちなみに、藤井さんは将棋に専念するために高校を中退しているそうだ。

 ・・・けれども、孫さんがこの本で描いたような未来がすぐに訪れるのかといえば、それは難しいだろう。
 たとえば、つい最近も滋賀県東近江市の市長による、
「(フリースクールは)国家の根幹を崩しかねない」
「大半の善良な市民は、嫌がる子どもに無理してでも義務教育を受けさせようとしている」
 という発言が物議を醸している。

 この方のように、個よりも国家を優先させ、教育を国家に奉仕する人間を育成するためのシステムだと見なしている人間は、けっして少なくないのである。

 そしてもう一つ、
「世の中の人間は、みんなが孫さんのようにポジティブな思考や意欲をもっているわけではない。また、『冒険』ができるような環境に置かれているわけでもない」
 ということも指摘をしておく必要があるだろう。

 孫さんが自分自身を基準にして、
「学校という呪縛から解き放たれれば、子どもたちは『遊び』と『学び』を融合させて自由に『冒険』を始め、好きなことだけをして生きていくだろう」
 と考えているのだとしたら、いささか楽観的すぎるのではないだろうか。孫さんはかなり特別な存在であって、それを一般化しようとすることには無理があるという気がする。
 また、子どもたちを取り巻く社会自体が、まだ「能力信仰」などの価値観を重んじている以上、誰もがそこで自由な「冒険」をすることができるとは思えない。

 ・・・もっとも、私のこういう考え方そのものが、長年にわたって学校教育に関わってきたことの呪縛なのかもしれない。そして、孫さんもそういった批判があることは百も承知の上で問題提起をしている可能性もあるのだ。

近未来の学校は!?

 とはいえ、孫さんがこの本で描こうとした未来に、世の中は少しずつ近づいてきているようにも感じる。

 先日、文部科学省による「児童生徒の問題行動・不登校調査」の2022年度の結果が公表された。それによると、不登校の小中学生は過去最多の約29万9千人で、前年度に比べて22.1%の増加となっている。
 これは孫さんが指摘しているように、今の学校というシステムが機能不全に陥りつつあるということの証左のようにも思える。

 また、前述した富山県の高校生のように、「学ぶこと」と「学校に通うこと」は、すでに同義語ではなくなってきている。
 今後は義務教育段階でもこうした「学校に通わずに学ぶ」というかたちが広がっていくことだろう。

 すでに文部科学省は、フリースクールやオンラインで学ぶことを「出席」として認めている。
 また、米国では保護者などが教師役となって自宅で学習する「ホームスクール」が認知されているが、日本でそうしたスタイルが市民権を得るのも時間の問題かもしれない。

 ・・・以前から、義務教育段階で私学へ進学する子どもは多く存在している。今後、カリキュラムや学校生活などに特色をもつ私学がさらに増えれば、経済的に余裕のある層は益々そちらに流れていくことだろう。また、日本国内への進出が続くインターナショナル・スクールに通うという選択肢もある。
 その一方で、フリースクールや通信制の学校を選ぶ子どもたちも増加し、さらには、ホームスクールをはじめとして学校という形態以外のところで「遊び」と「学び」を極めようとする子どもたちも出てくるに違いない。

 そんな時代が来たときに、公立の学校、特に小中学校はどのようになっているだろうか?
 まずは、学校自体が新しい世の中に合わせて、そのシステムをアップデートしていくことが必要だ。孫さんが掲げるような理想と現実とを擦り合わせ、できることから取り組んでいくことになるだろう。実際に、過去には見られなかった斬新な取組も各地の公立学校で始まっている。

 だが、それでも「公立離れ」に歯止めをかけることは難しいと思われる。
 結果的に、近い将来の公立学校では「福祉的な支援」を必要とする子どもたちの比率が大きくなるだろう。そして、学校のもつ「セーフティネットとしての機能」がこれまで以上に重視されるようになるのではないだろうか。

 公立学校も変化をしつつ、それ以外の選択肢も尊重していく・・・。
 そのあたりが当面の「落としどころ」になるように思われる。

リトマス試験紙!?

 冒頭に書いたように、この本を手に取ることを躊躇している学校関係者は少なくないだろう。だが、自分自身をアップデートするためにも、一読する価値のある本だと思う。
 少なくとも、「理論武装した”ゆたぼん”」などと言って敬遠するよりも、批判的に読み進めたほうが自分のためになるはずだ。

 これまでの取組を否定されたことに憤慨し、顔を赤くするのか。 
 公教育の今後を憂いて青ざめるのか。
 それとも・・・。

 まるで、学校関係者にとって「リトマス試験紙」のような一冊だと言えるのかもしれない。

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