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【『言語ゲームの練習問題/言葉を哲学する』を読んで】その2


【言語ゲームの練習問題/言葉を哲学する】を読んで その2
 先月、『言語ゲームの練習問題』という本を読んで、大変面白かったことを書きました。
今月もそのことについて書こうと思います。 先月著者橋本大三郎さんの言語というものについてのまとめとして、

3) モノとしては保存できない。人間がなくなると言語もなくなってしまう。

という定義を紹介しましたが、このことは「失われた文明の文字の解読は、暗号の解読と同じ?」という問いとして本の帯に取り上げられていました。 そして、本文中で翻訳という作業と暗号の解読という作業はまるで別のものである、ということが取り上げられていました。 翻訳とは別の意味体系のものを自分がすでに知っている意味体系に対応させる…ということで、2つの意味体系を頭の中でまたぐ…という作業であること。 それに対して、暗号の解読の方は、出来上がっている規則を別の規則に置き換えたものを解きあかし、もとの規則にもどすこと。 すなわち暗号の解読には実はひとつの言語しか関わっていない、ということだそうです。(なるほど、そうだ)

だから、宇宙のどこかで滅びた文明の文字配列のようなものを見つけたとして、スーパーコンピュータを使ったら我々と同じような文法規則を使っていることは解読できるが、なにを意味しているかは分からない。外国語がわかるとはその意味体系を使って、その意味体系内にいる生物(人間)と行動を共有することが第一義だから。……ヴィトゲンシュタインによると。 (だから、動物とはある語調の音声から期待したような行動が引き出せた場合、言葉が通じていると感じてしまう。)

それなので、その語系を引き継いでいる人の全くいない文明の言葉は予測をつけることができず、再現不可能…と見た方がいいそうです。 こう考えると現代の我々がお釈迦様在世のころのパーリ語などを研究できるのも、同じく古代からあるサンスクリット語などの意味解釈を引き継いでいる学者がおり、今も使われている現代ヒンドゥー語に似た用法が残っているから可能なのだということになります。

そして、「言語ゲーム」概念に従えば、言語習得の第一義は「ふるまい」の共有の「社会性」となるので、お釈迦様の言葉とはニルヴァーナという、苦悩が消えた意識を目指すためのふるまいを共有する人…すなわち弟子もしくはその候補者に対して語られていることが第一義の言葉ということになります。そこを共有していない人が言葉を解釈する時、コミュニケーションツールとしての言葉の第一意義がごっそり欠けることになるのかと思われます。

 そして、仏教研究の歴史の中でそれは実際に起きた、と思います。 西洋人で最初に仏教のテキストを研究しようとした人たち(主にドイツ人)は、当初仏教とは無神論であり、心霊などの存在は迷いの産物として認めず、安定した価値など認めない一種のニヒリズムである…と理解したそうです。 そして、理解するテキストが増えると共に、仏教徒をその国に行って実際に観察し、又人類学者などの報告を参考にしながら理解を改めていったようです。 現在はニヒリズムなどという人はいませんし、輪廻を考えているので他界の存在は認めていると理解しているのが主流です。

そして、現在の理解の水準というものがあるのですが、それでも最初の理解の仕方の痕跡はあると思われます。 どうもインドの他の思想とは全く違うものに仏教をしようとする傾向があるようです。 これは基本的に自分がその「ふるまい」を共有する…人生のよりどころにするための行動を学ぶ…ということでなく、外国文化をテキストから理解しようとしたことの弊害の残滓だと私は思います。 そして、西洋の研究のやり方を逆輸入して、行動からではなくサンスクリット語やパーリ語のテキストを研究するやり方で近代仏教学を作ってきた現代の日本の仏教学は色濃くその欠点を受け継いでいるように思えます。
目標とする「涅槃・ニルヴァーナ」と言われる状態とは?という問いも、テキストを研究するより何より、そういう人間から人間に伝わる「言語ゲーム」が基礎になっていると考えるなら迷路に落ち入る率はずっと減るように思われます。(その人を見よ!ですから。) テキスト的研究は辞書を繰って絶対的定義を探している時に似ていて、ぐるぐると別の言葉に置き換え続けることに似ていると考えられないでしょうか?

 もう一つ、AI 研究でよく取り上げられる「記号接地」という視点も入れてみましょう。AI は「甘酸っぱい味」という感覚経験は持ちようがないので、他の味覚を表す言葉や食べ物の情報を組み合わせて「甘酸っぱい」に関する一定の理解を持っています。 しかし、それは人間同士がイチゴの味を思い出しながら「甘酸っぱいね」という言葉を交わすのと同じことにはなりません。

人間同士も全く同じ感覚を持っているという保証はないのですが、これもやはり表情やそれに続く「ふるまい」から意味を共有していると “受けとる” ということが言葉の意味の理解である…これが「言語ゲーム」の最終結論です。「ふるまい」としての社会性をその言葉から受けとる…が言語理解の第一義となるので、問題が生じるとしたら、共有される社会性の精度の問題になります。 それを話しあって精度を上げていくのならイイのですが、テキストの中に答えがある…と考えるのはAI 的アプローチということになるのかと私は思います。(これも文法上の誤りを発見できたりで言語理解の誤解を小さくできる場合はあります。)  
「言語ゲーム」という概念を学んでみて、自分の専門である仏教に想いを向けると上記のようなことを思いました。 これも粗ーい思索に過ぎないのかも知れません。 色々な方の意見も聴いてみたいです。それこそ精度を上げるために!……今月はこんなところにします。来月もまだ「言語ゲーム」について、もしくは言語についてのことを書くと思います。


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