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さいたま国際芸術祭2023 ① ーさいたまデリーヴー


昔、穴を掘って家を埋めたことがあります。「地面の中の家がある」というタイトルで、東京都現代美術館に集まった1000個を超える空想から選ばれたアイデアを、大人が本気で実現するプロジェクトでした。その時にwah documentというチームで一緒に活動していたのが、今回さいたま国際芸術祭のディレクターをしている、現代アートチーム 目[mé]です。彼らがさいたま国際芸術祭2023を通して挑戦していることが、とても面白く心強かったので、長くなりそうですが整理してみます。

私は10年ほど前から、芸術祭のコーディネートをしています。地域NPOが主催する「信濃大町食とアートの廻廊」、アーティストが企画運営する「原始感覚美術祭」、地方自治体が運営母体となっている「北アルプス国際芸術祭」や「瀬戸内国際芸術祭」など、目的も様々な芸術祭に関わりながら、土地とアートの関係について試行錯誤しています。また、近年は北アルプスや瀬戸芸の公式記録集を担当したので、芸術祭をどのように記録するのかという視点も考えることが多くなりました。

日本で20世紀の終わりに始まった自治体主導の地域型芸術祭は、アートを巡りながら地域や人物の個別な物語と出会っていくという仕組みがひとつの特徴です。2000年代の芸術祭には、旅の匂いのようなものがありました。どこか懐かしい風景の中に迷い込んでいくと、アートの絶対的な異質さが現れて、自分の当たり前を揺さぶるような経験を繰り返し、どんどん自分が解体されていく。アート作品を巡る道程を迷子になって漂流するように、多種多様な異質さを行き来して、その体験の基礎となっている土地の豊かさを再確認することにもなりました。

その頃のことを思うと、運営側としてみんなが芸術祭に慣れてしまった事を自覚しなければいけない段階だと思います。2010年頃にiphoneが発売され、MAPアプリで現在地と目的地が繋がったことで、迷って地元の人に道を聞くこともなくなり、自分だけで終始してしまう。芸術祭がこれまでの「旅」から「観光」へ変化し、作品を見て回るというミッションをこなすためのスタンプラリーになってはいないか、考える必要を感じています。

さいたま国際芸術祭2023の第一印象は、「見る側にめっちゃ求めてくる」でした。旅や漂流という視点からさいたま国際芸術祭2023のメイン会場を見ると、導線も迷いやすいし、後述するスケーパーのこともあって、どこからどこまでが作品かという事すらわかりにくい。そうやって、表現者と観客の境界をあえて曖昧にする方法を模索している。このわかりにくさを、他の人たちがどんな風に感じているのか、ぜひ聞いてみたいと思ったので、自分も書いてみます。

整理するために説明すると「導線」と「スケーパー」という仕掛けが、こことそこ、わたしとあなた、観客と表現者を曖昧に混ぜていくように設計されていました。

導線、つまり観客が導かれる会場の順路が透明の壁で区切られて、ひとつの場所なんだけれども、 こちら側と向こう側に分かれています。向こう側なんだけれども、別の動線でたどり着いた場所が同じ場所であるという体験が、旧市民会館おおみやという建物の中で繰り返される。そうすることで、観客は自分がどこにいるのか混乱しながら、同じ対象を別の視点で、別の時間に、別の導線で見るということが強制的に起こります。

この、静かにパラレルワールドへ迷い込むような体験設計をわかりやすくさせているのが、大ホールの客席を縦に区切って、舞台の後ろへ繋がっている導線かもしれません。演目の公演中であってもその導線から演者と同じ舞台上にすら行けてしまう。そうやって、ここではないここ、わたしではないわたし、という存在を観客と演者に重ねていく。シュレディンガーの猫を思わせるようなこの仕掛けは、私たちの生活に起こりうる量子的な変化に備えた避難訓練みたいなアプローチかもしれないと感じました。

そして、観客と表現者を曖昧にする、という事をより推し進めているのが、スケーパーという仕掛けです。スケーパーの説明として、公式サイトに

*Scaperとは、景色を表す「scape」に人・物・動作を示す接尾辞「-er」を加えた造語です。*

*例えば、白髭を蓄えてベレー帽にパイプをくわえて古いイーゼルを立てて風景画を描いている「絵に描いたような絵描き」や、まるで計算されたかのように「道端で綺麗なグラデーションの順番に並ぶ落ち葉」のように、本当なのか偶然なのか…?見分けがつかないような「虚と実の間の光景」をつくり出す存在です。*

引用 https://artsaitama.jp/scaper/

とあります。そしてこのスケーパーを研究しているスケーパー研究所によると

*スケーパー研究所では、SCAPERを「虚構と現実のあいだを揺れ動く存在」と捉え、景⾊を⾒る⼈々に何らかのインスピレーションや感動を与えたり、新たな発⾒や気づきを促したり、現実を⾒る⽬を変えるきっかけを提供する存在と考えています。*

引用 https://sukeken.jp/

私が面白いと感じたのは「仕組まれているのか、自然なのか」という認識の曖昧さが、観客に自らが表現者として立つ姿を想像させることです。私が周辺をぶらり歩いていると、公園で年配の方々が10名くらい、輪になって体操をしている風景がありました。見過ごしてしまいそうな風景ですが、よく見ると皆あやとりを持って体操していて、その隣に「すこやか運動教室」と書かれたのぼりが立っている。そこで「はっ」とその人たちがスケーパーなんだと思い至りましたが、周りを見回しても誰かが注目しているという事もない。でも、その方々のいたずら心やユーモアを感じて、これは楽しそうだなと思いました。そして、ちょっとスケーパーの振りをしてみたくなりました。

そして企画者である目の他に、彩の国さいたま芸術劇場の芸術監督をしている近藤良平さんもまた、たくさんのスケーパーを量産しているらしいです。 仕掛ける側が誰がスケーパーかという事を共有しているわけでもないので、スケーパーという概念が独り歩きして、だれかによって仕組まれているのか、誰かにとっての自然なできごとなのか、虚と実の境界がどんどん曖昧な状態が生まれていました。そうやって歩いていると、この情報社会も、どこまでが自然なできごとで、どこからが仕掛けられているのかわからないじゃないか、とか言いたくなってきます。そしてそれは、冒頭に話した「芸術祭の旅する感覚」を取り戻すための、行政主導の地域型芸術祭に対するひとつのアンサーのようにも感じました。

スケーパーを追え (おすすめ)
https://www.1101.com/n/s/scaper_report/


そんな感じでさいたまを巡りながら、私の実感をどうやって曖昧にしないのか?という事を考えるために、さいたま国際芸術祭2023のテーマ「わたしたち/We」についてや、アーティストである目がディレクターをした事で賛否両論あるであろう作家の自立性のこと、頼りない現実とアウラの凋落についてなど、書きたい、、、と思いましたが、それはまた次回。明日もう一度見にいってきます。

続く

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