「幸福を祈る」展で見つけた縄文のカタチ|千葉市埋蔵文化財調査センター
先日、千葉市で開催されていた「幸福を祈る」展へ行ってきました。
古代千葉の数多くの出土品は、奈良の都を思わせる綺羅びやかさは無いものの、ここに暮らしていた人々の息遣いが感じられるものです。
またそこには、縄文時代から受け継がれた祈りの形も見られました。
今から約1300年前の奈良時代、聖武天皇の命よって国の平和と繁栄を祈るために各地に建立された国分寺(国分僧寺・国分尼寺)。
奈良から遠く離れた関東の庶民の驚きと戸惑いは、いったいどんなものであったでしょうか。
とりわけ7重の塔などは、それまでに見た事のない未知の世界です。
飢饉や疫病が頻発したこの頃、庶民はその日食べていくだけで精一杯であった毎日。国分寺を建立する意味に賛同し、積極的に関わったとは必ずしも言えないのかもしれません。
それでも成し遂げる運命にあった人々は心を一つにし、壮大なプロジェクトを成功させていきます。そのモチベーションを支えたのが、「仏教」であり「仏教文化」であったのです。
この時代に各地で多く作られたのは、墨で土器に文字や絵を描いた「墨書土器」。
国分寺の建立の工事のために様々な祭祀が行われ、その際の祈りや願いが込められた「文字」や「仏像画」、また「地名」などが多く作られました。
まだまだ「紙」が普及していないこの頃、「土の板」でなく敢えて「土器」に墨書として残したのは、土器・器の形にも祈りの意味を含んでいたということでしょうか。
そして、この「土器に施す」ということは、「仏教文化」が伝わるずっと以前の縄文時代にも存在していました。
この縄文時代の「人体絵画土器」は、「出産をする女性」を毛髪を使って描いたと考えられているものです。この時代にはまだ墨は存在しておらず、使われた顔料は分かっていません。
土器の底近くに描かれた生命の誕生は、何よりもの祈りであったようです。
また縄文時代には、縄文土器に線を刻んで描いた「線刻画」が作られました。
この大型の土器に描かれた絵の意味は解明されていませんが、確かな意思を持って施された跡のようです。
古代には古印の一つである、銅製の「銅印」が登場します。
この「福」も量産され、多くの人の元に届けられたと想像できるようです。
まるで花が咲いているかの「花弁状文」と呼ばれる文様は、縄文土器の内側底部に施されたものです。
器の内側に表した「福」と「花弁の文様」。文字と文様との違いはありますが、そこに込められたものは同じであるように感じられます。
古代には木で作られた「人形」や「斎串」が神に捧げられました。
この棒端にあるカオにこめられた祈りは、縄文時代の「土偶」と同じであったのでしょうか。
可愛らしく表現されたカオを見ていると、愛おしむ、という心情はずっと変わっていないように思えてきます。
日本各地の国分寺の造営は、それを指揮する役人は勿論、それまで仏教や美術には無縁であった人々に新しい信仰と価値観を吹き込みました。
それと共に、その土地土地でずっと信仰してきた神の存在も忘れることはなかったようです。
日本中を取り巻く景色が変わっていっても、新しいものを取り入れつつ、1万年以上も前から受け継がれてきた祈りの「形」をも踏襲していたことが見えてくるようです。
どんな時代にあっても「幸福を祈る」。
地球上の全ての人々へ、
この祈りが届きますように。
参考資料
「幸福を祈る」展 パンフレット
最後までお読みくださり有難うございました。
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