打牌批判の正当性とスタイルの話

久々にnoteを書くわけだが、今回は麻雀界隈における打牌批判の正当性についてである。

このnoteを書く理由はただ一つで、打牌批判をする人間の視野の狭さが気になるからだ。

そこから人間というファクターが麻雀というゲームで強くなるための適切なアプローチを探していこうと思う。

ではまず打牌批判の正当性についてだがこの画像をご覧いただきたい。


天鳳位の戦績だ(ネットに転がっていた)。

私はこの天鳳位の戦績から打牌批判の正当性について説いていきたい。
ちなみに打牌批判の正当性というのは、打牌批判をすべきかすべきでないかみたいな話ではない。
打牌批判をする時の批判者の感覚に釘を刺すイメージだ。

まぁ読めば分かる。

私が常日頃から感じているのは、批判部分のセンスの無さだ。
批判をする人間が良いとか悪いとかそんなことは思ったことない。クソ打牌はクソと言われて然るべきだとしか私自身は思っていないからだ。
これは私自身が言われた場合でも全く同じだ。

今回目につくのは"批判してる奴の批判部分のセンスの無さ"だ。
具体的に誰がどうとかではない。
何なら誰しもがそうだとさえ思っているくらい批判部分のセンスの無さは感じるからだ。
無論、自分もそういう部分は少なからずあるだろう。

では、センスのない批判とはどういうものかというと
「あーそれ人によるよねー」
って部分の指摘だ。

私はYouTubeで検討動画を出しているのだが、そこらへんはかなり意識している。
それは主観的に話しても"意味がない"からだ。

天鳳位の戦績を見てほしい。
和了率レンジは19.72〜22.95の3.23
放銃率レンジは9.74〜13.53の3.79
立直率レンジは13.66〜19.68の6.02
副露率レンジは25.52〜39.70の14.18

要するに多種多様なのだ。
特に放銃率〜副露率レンジに関してはイカれている。
こんなに誰もなれない天鳳位というものに打ち手の個性があるのだから。
私は天鳳位の戦績以上にアテになるデータはないと思っている。
それは打数と達成難易度が、このデータより上回るものが現存しないと思っているからだ。

◯千戦安定8.5以上のデータとかはアテになるけどね。

つまり何が言いたいかというと
このデータは【天鳳位になるという手段だけでもこれくらい戦略のブレが存在する】という事実を示しているのだ。
時系列を軽く見ても、どの時代は放銃率が低めであるとか和了率が高めであるとかは窺えないので環境の変化などは一旦気にしなくて良いと思う。

魂天とかの戦績のデータがあるならそれを集計するのも面白いかもしれないけど、達成難易度が高ければ高いほど私のしたい論の純度が増すのだ。
「どんな打ち方でも特上は上がれるよねー」
って話だからである。

しかし、天鳳位は無理だ。
こっちの打ち方でも上がれるかも!
みたいな印象を持つ奴なんて多分いない。
この打ち方が最適だ、と自分が思った打ち方でやっと上がれるかどうか(ほとんど上がれない)である。

つまり天鳳位という現存する最も不可能性の高い最高位を達成する場合において戦績レンジがここまで広がるという事実が、打ち筋の多様性を認めているのだ。

そして、この多様性の正体は【その人のスタイルの中での期待値の最大化】なのだ。
私が打牌批判において引っ掛かるのは
お前にとっての最大化と打ち手にとっての最大化は違う可能性があるよ
ということなのだ。
というか批判者はこのことを念頭に置かないなら、極端に鳴かないならアサピンという天鳳位を認めるなという話になるし、極端に鳴くならおかもとという天鳳位を認めるなという話になるし、なんでも立直を打つならすずめクレイジーを認めるな、という話になる。

おじさんみたいな有名天鳳YouTuberだって確かに見る人が見たらミスと思える"微妙な打牌"はある。
おじさんの場合は"上手さ"みたいなものを強みにしてる訳じゃないので当然だが、でもおじさんみたいにある種雀ゴロっぽい打ち方というのでも"打牌平均点"が高ければ鉄強になれる。
おじさんはその貴重なサンプルなのだ。

私は圧倒的に"上手ぶり"と言われる類の打ち手なのだが、おじさんみたいな無骨な打ち方の強さも分かっている。

たとえばお知らせさんの立直率を見てみよう。
19.68と局収支で殴っている感が窺えるだろう。
別にそのスタイルはそのスタイルで強いのだ。
少なくとも天鳳位になるというサンプルにおいては、すずめクレイジーみたいな局収支を無視したダマスタイルでもお知らせさんみたいな局収支立直スタイルでも"なれている"という事実があるのだ。

現段階で天鳳位以上の実績や目的意識を持つ打牌批判者がどれだけいるだろう。
少なくとも我々程度の打牌批判者は、これくらい打ち方が違っても天鳳位になる手段としてはどれも間違いとは言えないのかもな〜

くらいの視野の広さは無いとダメじゃない?
と思う。

ちなみに私が断言的に〜しかない
みたいな口調になるときは、そのレンジに収まってない感覚があるとき。
要するにスタイルとかでどうこう出来る期待値感覚を超えている場合になる。

もちろん批判してる人もそういう感覚を持ちながらやっていることもあるだろうけど、飽くまで主観的に私が思う打牌批判の世界ってあまりにも視野が狭いんだろうなこいつら
って感じなのである。

さて、ここからは人間というファクターが麻雀というゲームで強くなるための適切なアプローチの話をしたい。

私は不勉強か勉強家か
でやり方が変わると思っている。

たとえば私は不勉強で、最近麻雀を始めた人は勉強家が多いように思う。
不勉強と勉強家と言うと、不勉強な奴がただの下位互換みたいに映るのでこの両者の特徴を書くと

不勉強な奴は、思考力が高かったり経験から得るものが多かったりする
勉強家な奴は、本やセオリーの情報をインプットする能力が高い

って感じだ。
まず、自分が麻雀の戦術本やnoteなどを読みたいと思うタイプかで考えると良いと思う。
読みたいと思うなら勉強家タイプ。そうでないなら不勉強タイプ。
私は麻雀の戦術本を読んでる奴は頭がおかしいと思っているので不勉強タイプ。

ちなみにたまに両方を兼ね備えている奴もいる。
勉強もするけど思考力もめちゃくちゃ高いって人ね。
これは結構珍しい。大学でいえば早慶以上って感じだ。

この2タイプに大きく分かれて
まず勉強家の人から。

勉強家の人はインプット(情報の取り入れ)とアウトプット(その情報から導かれる打牌)を繰り返せばいいと思う。

人間って必要だと思わないと多分思考しないから
あーなんか考えなかったせいで負けた気がするなー
って部分は振り返って考えてみれば優先順位の高い順に思考する癖みたいなのが身につきそう。

考えることが苦じゃないなら常に考えて打てば良いけど、インプットした情報を頼りに打ちたいのに立体情報を組み込んで最適解を導き出すのって疲れるしリソースが足りないことが多いと思う。

ナーガとか戦術本とか統計データを大切にする(あんま知らないけど)うに丸とかの情報を取り入れて、それに忠実に打つのが基本はいいと思う。
(俺はナーガとかバカにしてるけど、それは俺から見たらあんま近道じゃない感覚があるだけで多分主観でしかないのだろう)

注意点として優先順位を間違えないことだと思う。
麻雀って要素が複数あってその中に優先順位があるから。
その選別がついてない人がこのタイプは多いから、そこを注意するといいと思う。

具体的には南3トップ目なのにブクブクにしてしまった
みたいな。

不勉強タイプへのアドバイスは戦略アプローチを考えることだと思う。
不勉強タイプは文字を読むことが出来ないので、自分で考えるしかない。
そうなるとここまで戦略レンジが広い(天鳳位の戦績から)のは救いなのだ。

案外自分のスタイルをギリギリまで信じて戦えるから。
天鳳位じゃなくて鳳凰卓で勝つことが目標であっても、同じことが言えるわけで。
ただ、戦略そのものが自分に合ってないとやっぱり勝てない。

どの巡目に期待値を最大化させるかっていうのは数学的思考じゃなくて文系的思考なんだよね。
数学がすごく出来る人が麻雀においてだけは的外れなことを言うのは線的思考が欠けてるからで、だからつまり多分これって数学じゃない。

これは昔ずっと話をしてたにせ国士って人が言ってたんだけどね、どうやらそれは本当っぽい。
あと、一意に定められない"確率"ってものの正体も数学とは違う何かと捉えるべきだ多分。

まぁこの辺は気が向いたらまた書くとしよう。

では。

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