新潟の石油王

1.調査の背景と目的
日本のエネルギー産業の中心といえば何か。それは石油です。
日本ではほとんど石油が取れないと言われています。しかし、かつて日本の石油王と呼ばれた人が新潟にいました。名前は中野貫一。我々は彼が日本の石油王と呼ばれた所以を調べました。
2.取材内容
 2-1.中野貫一
弘化3年(1846)、新潟県の金津村の庄屋の家に生まれた中野貫一は、14才から庄屋職を継ぎ公務を務めるかたわら、明治7年(1874)に本格的な石油事業をはじめる。
明治36年(1903)、商業規模の油田を掘りあて、明治43年(1910)の最盛期には新津油田は年産高約17万KLに達し、名実ともに日本一になります。塩谷事件などの数々の困難を克服しながら、日本石油・宝田石油などと並ぶ大産油業者に成長した貫一は、日本の石油王と呼ばれるようになりました。

中野貫一(1846年-1928年)
2-2.石油の里
 かつて、日本一の産油量を誇った新津油田、今ではその地域は石油の里として知られています。中でも金津地区は、平成8年(1996年)3月まで丸泉石油興産による石油採掘が行われていました。実際に使われていた石油採掘・精製施設は今でもその地に残されており、平成19年、新津油田は「日本の地質百選」に選ばれ、石油の里公園に残る施設(産業遺産)は経済産業大臣によって「近代化産業遺産」に認定されました。

 2-3.石油の世界館
 金津地区の石油の歴史や石油と人との関係は「石油の世界館」に展示されています。ここでは、石油採掘で使われていた道具や装置の展示や石油と人との歴史を当時の写真や映像で知ることができます。下記の写真は実際に展示されているものです。

↑ポンピング装置
1903(明治36年)に中野鉱業部が米国式掘削機を使って掘った3本の石油井戸とウォーキングビーム式ポンピング装置です。

↑上総堀り油井やぐら
千葉県上総地方から新津油田に導入された掘削装置。掘鉄管にヘネを取り付け、井戸の大小により、3人~8人が力を合わせ、弓竹の弾力を利用して掘鉄管を上下させながら掘り進みます。当時は上総堀りの装置を掘抜機械と呼ばれていました。

↑ろ過池
汲み上げた原油は集油所に集められ、比重の違いによって大まかに原油と水に分けられます。原油はポンプで集油タンクに水は地下パイプでろ過池に排水されます。

3.最後に
 今回、新津油田などを調査してみて石油が新潟に根強く関わっていたことを知りました。新潟で石油が発展し、多くの人たちがそれを支えてきたことが歴史から知ることができました。新潟の石油が日本一にまで上り詰めたこと、その姿を少しでも多くの人に知ってもらいたいと思います。