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楽を目指すことが正解なのか分からない

最近の私は楽だ。快適だ。理由はお金や時間に多少の余裕があり、ストレス(ストレッサー)も無いから。

だけどそれが「良い状態」なのかは分からない。

楽、穏やか、平和。それらが「良い状態」なのか、「幸せ」と呼べるのか、イマイチ分からない。

だからって苦労をすることが「良い状態」とも思えない。

私は一体何をどうしたら満足するのだろうか。

常に「今は無い何か」に憧れることしかできないのだろうか。

お金がないときは「きっとお金があれば今より楽になれる」と信じ、

時間がないときは「自由になりたい」と願い、

それらを手に入れたら「少しストレスのある状態の方がおもしろい精神状態を得られたな」と懐古する。

結局「今」を否定することでしか満足感を得られないのだろうか。

だとしたら、あまりにも悲しい。

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「足るを知る」という言葉がある。足るを知るのは唯一の幸せへの道にも思えるし、一方で幸せの諦め・放棄にも感じる。

今あるものを振り返って「幸せじゃん」と自分を納得させるのは、思い込み作戦というか、現実より認知を変えようとしてるだけというか、頑張ることの放棄に思える。

足るを知ることでしか幸福は感じられないんだろうけど。それにしても。

数字を追いかけるのは楽だ。夢中になってるうちは楽だ。他人からも評価されるし、自分も「なんとなくいい感じ」がする。主にお金の話。

だけどお金は何かに変換しない限り意味を持たない。お金それ自体には意味がない。ただの数字だ。数学オタクでもない限り、ただの数字に意味は見出せない。

お金の使い道を想像したって、主に浪費しか思いつかない。私はもともと普通の家庭で育ったので、大きなお金の使い方は分からない。

それは多くの人に共通していると思う。大金を手にしたとき、使い道として思いつくは「浪費」と「さらにお金を増やすための何か」。または思考停止としての寄付。

ああ、面白くない面白くない。

お金を増やすことはある程度まで希望になるけど、そのあとの状態はたかが知れている。実際に大金を手にしないと見えない景色もあるのだろうけど、だいたいは想像ができてしまう。それほどに奥が浅い話だ。

数字に対して必死になれるうちは華だ。かなり幸せだ。随分と恵まれた場所にいる。お金に余裕があるときよりも「お金に対して必死になれるとき」が何よりも華やかで精神が充実するはずだ。

自分が何を目指してるのか分からない。「これを目指してます」とハッキリ言える人だって、突き詰めたら「あれ、わからないわ」ってなる可能性が高い。(と思う。)

結局生きることは意味がなくて、意味を感じているうちは気のせいで、でも幸せだ。幸せは、気のせいなんだと思う。気づかないフリをした人が勝ちのゲーム。


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