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短篇小説 予告6/10 (猫を狩る13/X)

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この小説は 連作短編の2作目になります。
1作目の『猫を狩る』はこちら

6
 
 ルーターの電源を一旦落として、再びブログのコメント書き込みに戻る。アヤカのコメントに同調する人物を登場させるためだ。

――もう、本当に早紀キモいですよね。でもけっこう特定は簡単なんじゃないですか? 早紀がバイトをしているファミレスってもしかしたらあそこじゃないかって、心当たりがあるんですよね、知りたい?――
  
 新しい人物のハンドルネームを考えていなかった。また語尾にママをつけた名前にしようかと思ったけれど、アヤカがママのついた名を名乗っていないので、合わせてサクラという名前にした。ゆりママや、けんたママなどという名前を名乗る女は、ランチタイムのファミリーレストランでうるさく走り回る幼児を放置してお喋りに興じる母親たちを連想させる。その上、注意すると逆切れして、態度のよくない店員がいるので、辞めさせろなどという電話を本部にかけるので、始末に負えないと直之からよく愚痴を聞かされた。母親という名のもとに、すべてが許されると思い込んでいる厚顔無恥な女たち。それでも、なんとかママというハンドルネームの女に騙されるとは誰も思っていないらしく、便利なのでよく使っている。
 
 葉月が浴室から出て、自室に戻る。ほどなくして、声を抑えた笑い声が聞こえてくる。カズと話しているのか。早苗の「びびっている」様子を笑いものにして、「やっちゃう」計画について話し合っているのか。聞き耳を立てても、会話の内容までは聞き取れない。葉月は部屋を出てダイニングキッチンの方へ歩いてくる。まだ誰かと話しているらしく、小声で何かをささやいている。冷蔵庫が開く音がする。早苗は洗面所に入る。鼻にまとわりつく人工的なメロンの香りは、葉月が使っているシャンプーのものだ。かすかに饐えたような汗のにおいが混じっているのは、脱ぎっぱなしのハイソックスとショーツが散らばっているからだろう。拾い上げ、ゴミ箱に投げ込みたい衝動を抑え、洗濯かごに入れた。ついでに洗面所の棚を占領しているマスカラやアイライナー、ラメ入りのボディクリームなども捨ててやろうかと思ったけれど、思い直して新しいネイルエナメルが増えていないかチェックする。浴室の排水溝がげっぷをするような音を立てている。観音開きの扉は、たてつけが悪いせいか、力を入れないと上手く開かない。下水から上がってくる腐臭とシャンプーのにおいが混じった匂いに思わず息を止めると、排水溝の付近にはまだ流れていない水が残っていて、灰色にあわ立つ垢と脱色された長い髪が絡まって渦を巻いている。
「ちょっと葉月。こっちへいらっしゃい」 
 ペットボトルの水とプリンをテーブルに置いて、携帯で誰かと話していた葉月が怪訝そうな顔を向ける。葉月の手から携帯を奪い取ると、早苗は終話ボタンを押し、ダイニングテーブルに叩きつける。
「何すんのよ」 
「誰が携帯の料金を払ってると思ってんのよ」
 葉月は唇を結んで、恨めしそうに早苗を見る。何度か頬を張ったあと、葉月は殴られるときのこつを覚えたようだ。しっかりと歯を噛み合わせていれば、口の中を切ることはない。叩くつもりはないのに、そうやって身構えられるのが腹立たしい。
「誰が払っているんだか、言ってみなさいよ」
「……来月から、パパに払ってもらう」
「そんな減らず口を叩くんだったら、お祖母ちゃんの家にさっさと帰れば?」
 あの家に葉月の居場所などない。
「試験の範囲のこと、教えてもらってただけなのに」
 勉強や試験に関するメッセージなんて、一通も残っていなかった。前夫は、葉月が勉強のことを持ち出すと急に態度を軟化させていたためか、勉強と口にすればすべてが許されると思っているのだ。葉月が眠ってしまってから、娘の成績が悪いのは、早苗の血筋のせいだと罵られていたことを葉月は知らない。
「よけいなおしゃべりをしている暇があったら、勉強すればいいでしょ。それに、あのお風呂場はなによ。服は脱ぎっぱなし、髪の毛が排水溝に詰まりっぱなしで、だらしないったらありゃしない。今すぐ掃除しなさい」
 葉月はのろのろと立ち上がり、うんざりした表情で洗面所に向かう。早苗はテーブルの上に残された食べかけのプリンを台所の三角コーナーに捨てた。
 
 二時少し前に直之が帰ってきた。わざわざ終電に乗って帰ってくることもないのに。第一、最寄り駅から家までのタクシー代を考えたら、ネットカフェにでも泊まってくれた方が安上がりなのだ。
 葉月の部屋からは、ひそひそ話がやっと止んだばかりだった。また早苗の悪口を延々と友達に話しているに違いない。葉月が起きている間は電話の声が気になって眠れる気がしなくて、早紀のブログと不倫ウォッチ板とゆりママのブログをぐるぐると巡回していた。
「お帰りなさい。仕事どうにかなりそう?」
「仕事ってなんだよ」
 仕事を口実に出かけたことを忘れているようだ。
「仕事関係の人と会うんじゃなかったの?」
「ああ、その人なら来なかった。来るとは聞いてたけど、飲み会に誰が来て誰が来ないとかって行ってみないとわからないし」
 やはり単なる飲み会だったのか。そうじゃないかとは思っていた。
「ところで、この前話した会員専用のサイト、上手く行けばかなりの広告収入が見込めそうなんだ。サーバー借りるのにクレジットカードが必要なんだけど、ちょっと早苗のカード貸してくれないかな」
 
 直之にカードを貸し、普段より一桁多い請求が来たことがある。明細を見てみると、ネットゲームとオンラインカジノからの請求だった。あまりに頭に来たので、収入もないくせにそんなくだらないことに大金を使わないでくれと言い、ケンカになった。直之の言い分は、同じようなサイトを開いて儲けるためなのに、それが上手くいかないのは、早苗のせいだと逆切れされた。それ以来、クレジットカードを貸してくれといわれたことはないけれど、なんだかんだと理由をつけて現金をせびられるようになった。
「その会員制のサイトってなによ」
「俺の話なんか、どうせ聞いてないだろ」
 そんな話聞いてない。
「銀行振り込みとかで払えないの? アダルトサイトのアフィリエイトでけっこうお金入ったって言ってたじゃない」
「ああ、そんな金もうないよ。ふたりで気前よく使ったじゃないか、ディズニーランドとか行って」
 
 ディズニーランドには入場していない。駅ビルの中にあるパスタレストランで食事をしただけだ。ホテルオークラの部屋は早苗のクレジットカードで建て替えた。ホテル代は、直之が雅人という人妻ハメ撮りサイトの管理人から現金でもらうことになっていたけれど、そのお金ももちろん返してもらっていない。早苗は、直之に気づかれないようにゆっくりとため息をついた。インターネットや携帯サイトにいくら詳しくても、仕事と称して遊んでいるばかりで、何の役にも立たない。明日も遅番だけど、そろそろ寝ないと明日の仕事にも響く。睡眠不足で化粧の乗りが悪くなると、売れるものも売れない。
「わたし、明日も仕事だし、もう寝るね」
 そう言ってから、いい考えが浮かんだ。直之なら葉月の動向を探る方法を知っているかもしれない。葉月の携帯を盗み見なくても、どこかでメッセージの内容をチェックする方法はないのだろうか?
「そうだ。あのね、葉月が学校でいじめられてるみたいなの。何か様子がおかしいなと思って、携帯見てみたら、死ねとか、馬鹿とかひどいメッセージがたくさん入ってて……」
 とっさに嘘をついた。葉月に関心を持っていない直之でもさすがにいじめと聞けば協力する気になるだろう。
「そんなこと、教師に直接言えばいいだろ」
「そんなことしたら、もっとひどいいじめに遭うんだってば。とにかくいじめている相手と葉月に知られないように、状況を把握しておきたいの。なんかいい方法ないかしら?」
「ああ、チャットアプリをパソコンで見ればいいんじゃね?」
「そっか、それなら簡単」
 
 葉月は、一度眠ってしまうと多少の物音では起きない。部屋に忍び込んで、勉強机の上でチャージャーにつながれている携帯を持ち出した。
 チャットアプリをパソコンにインストールし、葉月のアカウントと携帯番号でログインし、認証メールからコードを拾い、メールを削除した。携帯を葉月の部屋のチャージャーにつなぎなおすときに、葉月が寝返りを打った。


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