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短編小説 猫を狩る2/7

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 ねねが谷村家にやってきたのは、花梨が幼稚園の年中の頃のことだった。ずっと猫を飼いたいと思っていたけれど、郁子の実家のマンションでも、独身のときに住んでいたアパートでも、ペットを飼うことは禁止されていた。たとえそれが可能な物件であったとしても、仕事に出ている間にずっと家に閉じ込めておくのは忍びなく、満足に世話もしてやれないと思ってあきらめていた。
 
 会社の同僚だった裕二と結婚し、程なく妊娠したので、ペットを飼うことは見合わせた。猫は妊婦とも赤子ともあまり相性が良さそうではなかった。裕二はペットを飼うことにはそれほど興味を持っていなかったけれど、幸いなことに動物に対するアレルギーは持っていないようだった。ペット以前に郁子にも、生まれてくる赤ん坊にもたいした関心はなく、何事も郁子の好きなようにするようにと、穏やかに笑う以外のことはしなかった。
 
 やっと猫を飼う話が具体化したのは花梨が五歳になってすぐのことだった。花梨が幼稚園に入園し、ふたり目の子供を作らないことを決めた。子供をふたり育てる余裕がないわけではないけど、納得のできる生活レベルを維持できる自信がなかったので、ひとりっ子の花梨が淋しくないように、猫を飼うことを決めた。

 ねねは、市の広報を見て、隣の駅の近くの建売住宅に住む吉沢さんという人からもらった。純血種の猫が欲しいなどとは思わなかったので、雑種のメスの雉猫をもらってきた。オスのほうが何かと面倒がないように思えたけれど、オス猫はすでにもらわれてしまっていて、メスしか残っていなかった。それがねねだ。メスには不妊手術をしてやらなければならないのか、吉沢さんに聞くと、完全室内飼いで、外に出さなければ大丈夫と言われたので、それを信じて手術はしなかった。

 花梨はねねをものすごく可愛がっていた。最初のうちは扱い方がわからなくて尻尾を引っ張ったり、ぬいぐるみのようにどこへ行くにも抱っこして、ねねに嫌がられていたが、扱い方のコツを飲み込むと、すぐに仲良しになった。
 
 ねねを動物病院に連れて行かなければならない時間になったので、ひんやりとした玄関のタイルの上で丸くなっていたねねをケージに入れた。ねねは不安そうににゃあと鳴いて、大きな緑色の目で郁子を注視した。
 
 かかりつけの動物病院までは車で十分ほどの道のりだ。花梨も車で送り迎えができるのなら楽なのに、といつも思う。花梨を学区外の小学校になんとか入学させてもらうための条件は、歩いて通学させることと、一年生の間は親が送り迎えをすることだった。どうしても学区内の学校には入れたくなかったので、条件を呑んだ。一日にあと二時間自由な時間があったら、もっといろいろなことができるのにと、時間が有効に使えないのをつい花梨のせいにしてしまう。本当は郁子は暇なのだ。でも送り迎えのことを考えると時間が気になって集中して何かをやろうという気にはどうしてもなれない。花梨が小学校に入学したらアルバイトでもしようと思っていた。でも、朝学校に行って帰ってくるともう十時少し前になっている。一時半ぐらいにはまた家を出なければならない。できることといえばせいぜいファミリーレストランのランチタイムのウェイトレスぐらいだろうか。
学校を出てからずっと事務の仕事をしていたので、接客業というものに郁子は慣れていなかった。それに、一回りも年下の店長に使われるのかと思うとなんとなく尻込みしてしまう。夫の裕二はとっくの昔に郁子への興味を失くしているので、働こうが習いごとをしようが、好きにすればいいという。ただ、そう口にするだけで、具体的に郁子の手助けをすることはない。郁子が同じマンションに住む幼稚園ママから孤立してしまったときも、仕事が忙しいので、近所付き合いのことにまで構っていられないと、面倒臭そうに言われた。
 
 もしもあのときにねねを手放していたら、こんなことにはならなかったのだろうかとも思う。でも、郁子にも花梨にも懐いているねねを誰かにあげることなんてできないし、ひとたび、郁子たちがあの人たちの敵になってしまったら、ねねがこのマンションにいようといまいと、関係は元に戻らない。憎むべき誰かは、誰にでも必要で、このマンションではたまたま郁子たちがその役目をおおせつかってしまったに過ぎない。郁子たちが住んでいるのは分譲マンションなので、新しい人が入居してくることもあまりないだろうし、このままみんなの仮想敵を演じ続けるしかないのだ。郁子は駐車場に下りて、ケージをバックシートに乗せると、車を発進させた。
 
 ねねが子猫のときからずっと診てもらっている若い女性の獣医は、ねねを一通り診察すると、じゃあ明日の今ぐらいの時間に迎えに来てくださいね、と言ってにっこりと笑った。二歳にもなって今更不妊手術をすることに対して何か言われるのではないかとずっと気にしていたにも関わらず、何も言われなかった。

 帰りにスーパーに寄ると、同じマンションの隣の棟に住んでいる小田が、娘の桃実を乗せたカートを押しているのが見えた。郁子は顔を合わせないように棚の陰に隠れた。そうしてしまってから、なぜ郁子が逃げたり隠れたりしなければならないのかと思って、自分の卑屈さに嫌気がさした。

 小田には花梨と同い年の桃実という女の子がいて、年少の頃からずっと仲良くしていた。下の子が小さいので、桃実を預かったことも何度かある。それなのに、ねねのことで事件があってから、口も利いてくれなくなった。避けたつもりだったのに、お菓子売り場に入ったときにばったりと小田と鉢合わせしてしまった。一瞬目が合うと、小田は視線をそらせ、郁子の脇をすり抜けた。

続きのお話


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