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犬 中勘助著 (16)

※中勘助著『犬』という作品です。
※旧仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は現在使われている漢字に修正し、読みの難しい漢字にはルビを振ってあります。

前回のお話

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16
 彼女は彼の言葉を無条件にうけいれた。とはいえなんたる因果かいかにし ても彼のように喜び勇んで神意にしたがうことができなかった。彼女は一旦 あの人にささげたと思いこんだ身体を余人よじんにまかすに忍びなかった。恋人の血で浄められた大事の胎を厭わしい人の血で穢すに堪えなかつた。
「ええ子ぢゃ。の、おとなしゅうせるぢゃよ」
 僧犬は機嫌をとりとりそばへよって腹這っている彼女の下腹のへんを鼻で ぐいぐい押して立たせようとする。それはちょうど人間が腋の下をくすぐられるようないらだたしいへんな感じがする。それをじっと辛棒していれば彼はひつこく尻を嗅いでは嗅いでは押す。彼女はたまらなくなっていやいやに身を起した。僧犬は満身獣慾に燃えたって彼女の背中にのしあがった。と同時に彼女は五体がそのまま硬直してしまった。気が遠くなって火みたいな血がかけまわった。恐ろしい、息のつまりそうな、類のない苦痛を覚えた。彼女は逃げ出そうとしたが僧犬は非常な力でしっかりと腰をかかえている。そして彼女がすりぬけようとすれば後足で歩いてどこまでもついてきながら、腹を立てて今にも噛みつきそうにする。彼女は暴力に対する動物的な恐怖に負けてしまった。彼女はきゃんきゃんと、悲鳴をあげた。口から泡をふいた。神意によって結ばれたる夫婦の交りは邪教徒の凌辱よりも遙に醜悪、残酷、且つ狂暴であった。……………僧犬はやっと背中から降りた。彼女はほっとした。 が、その時彼女の尻は汚らしい肉鎖によって無慙に彼の尻と繋がれていた。彼女は自分の腹の中に僧犬の醜い肉の一部のあることを感じた。それは内臓に烙鉄らくてつをあてるように感じられた。彼女は吐きそうな気になった。いわばその胎から嫌悪がしみ出した。彼女は早く離れたいと思って力一杯歩き出した。 僧犬は後退りしてくっついてくる。
「ああ、いやだいやだ。なんという情けないことだろう。こんなにしてるうちに私はきっとこの人の胤を宿してしまうだろう」
 彼女は自分の肉体が僧犬の肉体の接触のために、自分の意志に反して性的な反応をひき起すのが情なかった。そうしてそれが「あの人」に対してしんからすまなかつた。
「ゆるしてください。私の身体はこんなだけれど、心は決してそうじゃないんです」
 そんな気持であつた。彼女はそれが「神意」であることを疑わなかったとしても、自分にとってそれを「恵」と考えるにはあまりにつらかった。むしろそれは「罰」であった。
 ようやく身体が自由になった時に彼女はへとへとに疲れて横になった。僧犬はなお身動きもできずに精をたらしながら、地から生えたように立って喘いでいる。
「なんという浅ましいことだろう」
 そう思って彼女は顔をあげた。ながいことかかってやっと僧犬は常の身体になった。彼は自分の局部をなめてからそろそろと寄ってきて入念に彼女の尻をなめた。その表情には情欲をとげたものの満足と、性交の相手に対する特殊の愛情があった。彼は彼女のそばにより添ってじきに眠った。彼女はその気楽な鼻息をきいた。もはやそこには神意も夫婦の道もなにもなかった。
「この人はああしてしまえば気がすむのだ」
と彼女は思った。
 僧犬の獣欲は恋がたきに対する嫉妬によって一層刺激された。一度彼女を抱いてからは自然相手の場合がまざまざと想像された。彼のあらゆる感覚が相手の感覚を妬んだ。
「彼奴はわしより先にこの女をたのしみおった。彼奴の血はこの女の体内をめぐっている」 
 そう思うと歯の鳴るほど忌々しい。彼はいやが上に己の血を彼女の体内に 注入することによって憎い相手の血を消してしまおうとするような気持で根 かぎりつるんだ。そして情欲のとげられた瞬間に於てのみ生理的に嫉妬から解放された。 
 傷ましい日が幾日かつづいた。ある夜の明けがた彼女はふと恋人の夢をみ た。それは彼女の見なれた印度の町ではなくて異教徒の国である。そこには 異教徒の男女が蟻のやうに群って凱旋の軍隊を迎えている。彼女はそのなか にまじって自分も異教徒であったかのように平気で「あの人」を待っている。 と、ちょうどそこへ約束したように「あの人」の姿が現れた。よく夢にあるように。彼は一隊の騎兵の先頭にたって立派な栗毛の馬に乗っている。そしてぴかぴかする甲冑をつけてすばらしい長い鎗をもっている。彼女が嬉しまぎれにかけよって鞍にとびつくと彼は別段驚いた様子もなく
「知ってるよ」
というように笑いながら彼女を抱きあげた。馬にのって鎗をもってるくせに どうしてかひょいと造作なくかかえた。そこで一生懸命にからみついて口つけようとすると生憎ずるずるとすべり落ちる。やっとこさと這いあがって口つけようとするとはまたずるずるとおっこちる。じれったいおもいをして幾度も幾度もそんなことをくりかえしてるうちになにかのはずみでふわーっと鞍から転げ落ちたと思ってはっと目がさめた。彼女は今の今とうってかわった自分の周囲を眺めた。そうして啼き叫ぼうとしたが、そばにいる僧犬を見て声をのんだ。気ちがいのような性交に疲れて、横っ倒しに四肢を投げだしていぎたなく眠っている。彼女は夢に見た人が恋しくて矢も楯もたまらなくなった。 
「私はガーズニーへゆこう」
 彼女はガーズニーの名をきいていた。そこは異教徒の王様の都だということも。あの道をあの方角へ行くのだということも。もう神意もなにもなかった。ただ恋のみがあった。


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