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ツインレイ男子の苦悩①

今朝寝起きにまたバーっとイメージとか、エネルギーが飛んできて。
あーそーゆーこと??って、ひとり納得した。
よく世間的に言われているのが
『夫婦関係というのは、妻が経済的依存をし、夫は精神的依存する傾向が強い』
という概念。
まぁそもそも日本での結婚制度自体がそのような社会背景にあるのだから、そうなるのも自然な気もするが、やはりそれはあると思う。
結局夫婦とはお互いに、依存関係にあるということ。

急に片割れの様子が浮かんで、腑に落ちた。
数年前の相手は、私から見て、
人生そのものが楽しくはない。ただ仕事は
「〜ねばならない」「仕事は忍耐で我慢するのが当然」そんな感じで、本意ではないにしろ、
気合いで乗り切ってる。周囲にも強い男であるアピールとして偽りの仮面で強がって見せて生きる。
その分オフに反動がきて、力が抜け、無気力で時間が過ぎる。
そんなふうに見えていた。
数年を経て環境を変化させた今の相手は、まるで様子が違う。以前のような仕事中に虚勢を張る感じは見られないが、寂しさを滲ませていた。
以前とは違って良くも悪くも浮いてしまったいるような、虚しさが滲み出ていた。
まだ勤務時間中はそれでもやり過ごせるのだろう。
ただ、それが休憩時間となるとやり過ごせない。
そこを埋めてくれるのが今あるプライベート環境。
しかしそれも心から満たされるでもなく、見せかけで気を紛らわせているような世界。
この人は24hどこにいても、何をしていても虚しさで溢れていて、さみしくて、どこにも本当の居場所を感じられず生きている。
それを感じたのだ。なんて辛い人生なのだろう。

もちろん現実的にもそのトリガーとなる出来事はあったはずだが、あくまでそれはきっかけに過ぎず、
あの人はひとりで自分を満たす術がわからず、
精神的に家族に依存するという形で今の環境を選んだのだと思う。
片割れというもうひとりの自分の存在を手放した後にね…。
(なるほどな、休憩中でさえ家族という存在に精神的に依存しなければ虚しさを紛らわすことさえできないからこそ、あんな事をしてたんだ…とめちゃくちゃ納得!)

対する私は真逆の生き方を選んでいた。
出逢った頃は同じスタート地点。何をしても満たされることのない虚しさだらけの人生。
そこから、ありとあらゆるものを手放して、手放しまくって、とことんひとりで生きることに向き合う中で、自立を養わされた。
自分で自分の人生を創り出すこと。
それは生きていくという部分でもだし、精神的にもひとりでも自分で自分の心を満たすという経験。
それがこのプロセスであった。
その先に私は、実は誰かに依存しなくても初めから私は孤独ではなく、満たされて生きていけることを知った。それが今の私。
だからこそ数年ぶりに会った時の差とギャップに大きく驚かされたのだと思う。
ツインレイは同じ学びを、真逆の方向から学ばされる経験。
確かに再会して再度双方の存在を認識することでしか、今の自分の状況を自覚することは困難だから。
そのために宇宙は再会の場を促したのだろう。

私は強くなった。何かに、誰かに依存することからも逆に手放しをし、今では逆に結婚という制度に縛られることですら違和感を感じて考え込んでいる程なのだから。
そりゃ〜ただでさえ事実を自覚するのは怖いのに、
成長に差が出てきている私を見るのは苦しくなるのは当然のことなのだと思う。
単純にそれは以前のような恐れとはまた別の、
自分が今、家族に精神的に依存して生きている(でも結局満たされてはいないけど)ことを認める怖さなのではないか。
あくまで感覚的なものではあるけれど、あの人はすでにそこに気づき始めているのではないかと思う。
まだそんな弱い自分を「受け入れる」ことはできていないにせよ、
結局こうすれば誤魔化せる、虚しさからは(表面的には)逃げられると思って選択したはずの人生が、
結局何も変わっていなかったこと。
一体今の自分の人生は何だったのか?
そんなことを感じ始めている…のかな??と思った。
そりゃ〜そうだよね。そんな時に片割れの私は真逆で、家族も仕事も手放して、でもそんな世界を逆に堪能して生きているのだから、
思考では見てるとムカつくのだろうな。
以前とは違う意味での嫉妬心。呪縛から解放されて自由を謳歌して幸せな私との比較。
自分はこんなに苦労して生きてるのに、満たされない。だけどもうひとりの自分である私が以前とは正反対になっていたら、そりゃ〜腹も立つだろう。
でもそうして私を憎んだりして逃げることを選択するならば、ますますあの人は自分で自分を追い詰めて苦しくなっていくだけだ。
もうひとりの自分である私を突き離せば離すほどに、
苦しさは増していく。
それを受け入れて、認めることができるのか? 
先に学びを進めてきた私とは逆に、ここから本当の学びに入っていく相手。

こんな内容のことを今朝イメージとエネルギーで受け取った。
見せかけだけの表面的な、条件付きのどこまでも満たされることのない偽りの愛。
それを手放すことでしか、本当に求めていた魂からの幸せに辿り着けないこと。
それに果たして気づくことができるのか?
ここまでくると、もはやワクワクしているドSなもうひとりの自分(私)。
その地獄から這い上がって来れるのか?ゲームのようにも思えてきた。
確かに今やっていることは、地球上でのゲームでもある体験だ。私たちはこの体験ゲームをするために生まれてきているのだから。
そう思うと当時「一生ゲームしていたいんだ」と言っていた相手の魂も、なんやかんやで苦しむ事を楽しんでいるのかもしれない。
(もちろん魂レベルでの話。本体の人間思考は地獄の底にいるのは承知だが。)
私、一足先にそのカラクリに気づいて卒業したもーん。早くここまでおーいーで!
そう思ってクスッと笑った。

今日はいい天気。
今日私は、いつも愛を届けてくれている家族のために愛を注ぐ日。
私が愛を注ぐのは片割れだけではない。
何より私自身にまず愛を注ぐ。そうすることで、周囲の大切な存在にも愛を循環させていく。

そうそう、昨日は違う意味での奇跡体験をした。
豊かさを引き寄せた話。
それを次の記事に書こうと思う。

地元のパン屋さんで。朝食にいただきます。

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