見出し画像

煙草と苺ミルク

 パスタ屋勤務時代の最後に、川崎で新規オープンを担当した。
 以前よそでオープンをやった際、隣の爺さんからの言い掛かりに近いような苦情で大いに困ったことがある。相手は建築関係の社長さんで、地元の有力者だったらしい。
 よくよく調べてみると、オープン前にこの爺さんだけでなく近隣住民に対して何の挨拶もしていないとわかった。どうやらその辺りから面白くなかったのが、オープン後の苦情につながっていたらしい。挨拶ぐらいは本部のスタッフが当然やっているものと思っていたから大いに呆れたが、本部スタッフにしてみれば現場の苦労など他人事なので、そういうことになるのだろう。
 だから今回は最初から当てにせず、自分で挨拶回りをしておくことにしたのである。
 近隣の有力者を地主さんに訊きに行ったら、何軒か挙げた後、隣の煙草屋の婆さんにちょっと気をつけておいてくれと云われた。
「あれはうちの姉なんだけれど、ちょっと難しいところがあってねぇ……」
「はぁ、そうですか」

 実の弟が難しいと云うようでは剣呑だ。よほど注意をしながら、まずは煙草屋へ挨拶に行ったら、「こちらこそよろしくお願いします」と普通に笑顔で返って来た。
 何だか随分拍子抜けした。別段難しいようには思われない。きっと身内だから色々あるので、他人にまで難しいわけではないのだろう。
 全体、こちらはそこまで深い付き合いをしようと云うのではない。普通に浅く接している分には、怒られることもなさそうだからひとまず安心した。
 婆さんの店では、自分が吸っている煙草の銘柄も扱っていたから、ついでに一つ買っておいた。
「ありがとうね」と婆さんは言った。
 店の前に自販機があって、あんまり見かけないようなジュースが色々売られている。物珍しさで苺ミルクを買ってみると、存外美味くて、何だか懐かしい心持ちがした。
 以来、始業前にそこで煙草と苺ミルクを買うことに決めた。

 幼い頃、祖父の家で祖母が苺を出してくれたが、どうも酸っぱいようだった。それで母が深い皿に移してフォークの背で苺を潰し、砂糖を振って牛乳を入れた。スプーンで掬って食べると、随分美味くて感心した。
 それ以来、苺を食べる際には自分で潰して苺ミルクにしていたけれど、じきに飽きたので止してしまった。
 そのうち、苺自体を食べることがあんまりなくなったように思う。

 ある時、苺ミルクを買って店に戻ると、本部から指導担当の女子が来ていた。
「店長、可愛いものを飲まれるんですね」
「そうだよ。何しろ、可愛いものが似合うのだからね」
「本当に似合いますよね」
 余計なことを言ったと思った。どうもこの人は、冗談でなく本気で言っているように見えるからいけない。言ったこちらが恥ずかしくなった。

 指導女子は山口出身で、なかなか訛りが抜けない人だった。
 自分は同じ瀬戸内出身だから大凡おおよそわかるけれど、川崎のスタッフに対してそれでは通じないだろうと指摘していたら、地区マネージャーから「あいつ、気にしてるからあんまり云うな」と影で言われた。それでこちらも云うのを止した。

この記事が参加している募集

振り返りnote

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

よかったらコーヒーを奢ってください。ブレンドでいいです。