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犬に噛まれる

 パスタ屋従業員を辞めた後、大学時代に通った飲み屋を継ぐ話があり、ついでに二ヶ月ばかり店主の家に居候させてもらった。店主は面倒見のいいおばちゃんで、「ええで」と快諾してくれたが、今思えば転職するのに段取りが悪過ぎたろう。

 家にはおばちゃんの他、娘が一人と家族同様の従業員が一人、それからシーズーが一匹いた。
 このシーズーが何だかやたらに吠えてくる。自分が新入りで、一番下位と見なされたのだろう。そう思うと面白くなかったが、犬相手に「下に見るな」と云ったって始まらない。当分は我慢するしかないだろうと腹を括った。

 初日に「百さん、この子の散歩行ったって」とおばちゃんから言われ、自分はこの犬を連れて散歩へ出た。
 それまで犬を飼ったことはなかったから犬の散歩というのが物珍しく、嬉々として出かけたけれど、少し行ったところで早速噛み付かれた。他の犬に気を取られているのを方向転換させようとして、ガブリとやられのである。
 このクソ犬と思ったが、こちらは居候の身である。まして動物を虐待するような者でもない。丹田に力を入れて不問に付しておいた。それから散歩を続けたら、通り掛かった美容室の前でスタッフの女子が犬に手を振った。

 その後もこの犬は、自分に対して吠えたり唸ったりして来た。その度にクソ犬と思ったが、そうして暮らす内には段々馴れて懐いてきた。
 ある時、寝転がってテレビを見ていたら寄って来た。枕の代わりにしたら、しばらくおとなしくしていたが、じきに抜け出して逃げた。
「なんか、あんたにめっちゃ懐いてるな」と、店主の娘が言った。娘はこの犬をあんまり寄り付かせない。
「そうかね」
「あんた、責任持って引越し先に連れてってや」
 その時分にはいつまで居候というわけにもいかないから、近くに部屋を借りて引っ越しの段取りを詰めていたのである。
「何でや」
「あたしその犬邪魔やねん」

 それからじきに引っ越してしまい、それきり犬には会っていない。
 店主の娘も間もなく結婚して家を出た。
 岩村の話では、犬は相変わらずおばちゃんに可愛がられて暮らしていたそうだが、四半世紀も昔のことだから今はどうしているかわからない。

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