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白薔薇と月光

白い門扉のカギを開けて玄関へと向かう階段を上がって行く。
階段の横は花壇になっていて、春には水仙やチューリップが咲くのだが、今はたんぽぽが咲いていた。
そろそろ初雪も降る頃だというのに、まだたんぽぽが咲くんだなと思いながら、雑草だらけの我が家の庭を眺めた。
冬も間近なので、庭の雑草はほったらかしだ。
以前はこまめに雑草取りもしていたのだが、ある日雑草取り最中に呼吸困難に陥ってからは、除草剤や草刈り機のお世話になっている。
あの時はかなり焦った。
突然息が苦しくなりめまいがした。
なんとか頑張って玄関に転がり込んだ。
庭で死んだらからすに食われるのかな、そんな考えがちらりと頭に浮かんだ。
 
 
2週間限りの電話帳配達のアルバイトをしたことがあった。
その頃はまだ固定電話の家庭が多く、個人名と電話番号が載ったハローページと店舗や企業の番号が載ったタウンページがあった。
どちらもかなり分厚く、重たかった。
電話帳を配るだけではなく、昨年やそれ以前の電話帳を回収する必要もあった。
 
朝7時に家を出て、車で小一時間ほどの所にある埠頭の倉庫に電話帳を取りに行く。
車に積めるだけ積んで、家に戻って来る。
配達区域は我が家から半径3キロ以内程度のご近所さんだ。
積んできた電話帳を我が家の車庫内でまずはビニール袋に入れて、午前中配達分と午後分とに振り分ける。
回収もしなくてはならないから、あまりいっぱいいっぱいには詰めないのだ。
 
 
「すいません。電話帳をお届けに来ました。」
「あらあら、ご苦労さん!」
「古い電話帳は回収しています。」
一軒一軒声をかけて配達回収をしていたが、留守な家も多く思ったように配達出来ない事が多かった。
その内、留守の家には「明日朝回収します」というメモをつけて電話帳を玄関先やポストに入れるようにした。
 
4階建てのエレベーターがない団地は、結構きつかった。
なるべくなら、4階分を一気に持って行きたいところだが、分厚いハローページとタウンページセットは、かなり重く、しかも回収する事も考えると4セットずつ持って行くのが精一杯だった。
初夏の頃だったのでまだ左程暑くはなかったのだが、配達から戻って来ると汗だくだった。
そこの団地以外は戸建てや平屋が多く、アパートなどもほとんどなかったので、団地を制覇した後は、楽勝だった。
 
その家は門から家が見えなかった。
左程高い塀が立って居るわけでもないのだが、うっそうと生えた草木が家を隠していた。
もしかしたらここは人が住んでいないのかもしれない。
玄関へと続くであろう敷石の間のあちこちから草が伸びていて、両側の庭も長らく手が入っていない感じがあった。
でも、以前はとてもキレイな庭だったのかもしれない。
雑草の合間には薔薇やアジサイ、芍薬、花菖蒲が咲いているのが見えた。
そんな事を考えながら歩いていると草木の間から居間とおぼしき場所が見え、ガラスの向こうに人影が見えた。
空き家ではなかったんだ、と思いつつ玄関先に着いた私はチャイムを鳴らそうとした。
 
タタラタタラタタラ・・・・。
ピアノの音だった。
少しゆっくり目なテンポでかすかな音だった。
この曲・・・・。
 
だんだん音量が上がり、ところどころ強い音が入って来る。
あぁ、これは月光ソナタだ。
 
私はチャイムを押さず、玄関先のポストにメモをつけた電話帳セットを押し込んだ。
月光ソナタを背にして、私は元来た道へと戻って行く。
初夏のカラっと晴れた青空の下なのに、そこだけは真夜中の月に照らされているかのようだった。
 
泣いているのかな?なんとなく、そう感じた。
 
翌朝、電話帳を回収に行った。
玄関前に古い電話帳と一緒に新しい電話帳が置かれていた。
「電話帳は要りません」と小さくて少しカクカクとした字体で書かれたメモが付いていた。
 
その日の夕方、晩御飯の支度をしながら、何気に母に月光ソナタの家の事を話した。
「あそこの息子さん、3年前にご両親を事故でなくしてから、ほとんど家から出てこないみたい。一人息子で保険金だの遺産だのがかなり入ったせいなのか、それ目当てで押し寄せて来る親戚達が後を絶たなかったとか、聞いたけど」
 
何もない草原の中に1台のピアノが置かれている。
ピアノの周りには何本もの薔薇が植えられている。
雲一つない夜空には、煌々と満月が輝いている。
ピアノの前に座っている青年は、髪もひげも伸び放題だった。
長らくまともな食事もしていないのか、その眼は落ちくぼみ、頬はこけ、手は関節に皮が張り付いたかのよう。
彼が月光ソナタを弾き始めると、薔薇はどんどん伸びて行き、やがて彼とピアノをすっかりと覆い包んでしまう。
曲が進むにつれ薔薇は次々と花を開いていく。
その花は透き通るような白だった。
 
 
私の電話帳配達のバイトも無事終わり、また平穏な日々が訪れた。
次のバイトはどうしよう?なんて考えていたら、知人から仕事の依頼が来た。
慌ただしい日々が訪れ、私はいつの間にか月光ソナタの彼の事を忘れ去っていた。
雑草だらけの我が家の庭を見て、誰かも勝手に妄想しているかもしれないな、なんて思うと笑えて来る。
 
あの時浮かんだイメージの薔薇は何故白かったんだろう?
あの後、彼はどうなったんだろう?
それを知ったところで何にもならないが、少しだけ気になった。
あれ以来、月光ソナタを聞くと私の中に白い薔薇が咲くようになった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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