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そもそも零という名前であだ名がゼロなこと自体、オシャレだと思う

今日は私の友達の誕生日だ。彼女曰く、現在進行形で強く欲しているものは“自分の推しを推していない人による推しの話”だそうだ。注文が多い料理店ならぬ注文が厄介な料理店の料理長だと言われれば信じてしまうかもしれない。しかも、私が書く側なのだから必然と私が料理長になるという点も見逃せない。労働基準監督署を呼んで。それも今すぐ呼んで。
そんな文句を言いながら、それでも友達が心から欲するのなら書くっきゃあるめぇ。そんな仁義と友情でこの文章を今、書いている。全てのクレームと不満と文句と怒りは友人へ帰属します。お誕生日おめでとう。

友達の推しというのは、タイトルにも仄かに出演しているが只今劇場版アニメが絶賛放映中の名探偵コナンに出て来る降谷零だ。またの名を安室透。
先に言っておくと、私の中のコナンという作品の知識はほぼ劇場版アニメとSNSで得た情報で構成されている。そんな感じの人間なので、あの漫画には公安のみならず黒の組織やFBIなど国内どころか最早世界各地に色んなキャラクターが散らばっているようなのだが、私は原作漫画側での彼彼女等をほとんど存じ上げない。毎回のように劇場版の最初の方で、コナンが親切丁寧にしてくれる紹介を頼りに映画を楽しんでいる。
そんな真のファンの皆さんからしたら舐め腐った楽しみ方をするライト層の私すら毎度楽しんでいるのだから、流石世界で愛され続けてきた作品だなぁと思う。ありがとう、名探偵コナン。特にコナンにはお礼を言いたい。冒頭のあの説明、マジ助かる。マジタスカル。マダガスカル。

話を元に戻し、本題にどんどん入りたい。友達の推しの名前は降谷零で、安室透だ。私の第一印象としてはなんか突然現れたイケメンである。最初の頃は安室透と降谷零は複雑な家庭事情のある双子の兄弟と思っていたが、全然同一人物だった。それを知って以降も暫くは「まぁ、いろんな家族の形があるものな…」と名前がふたつある事実を大雑把に処理していた。あの日の私に誰でもいいから指摘してもらいたいものだ。んなわけあるかいと。

ある程度時が経つと劇場版にも彼がなかなかおいしい役どころとして出てくるようになり、劇場版名探偵コナン ゼロの執行人では公安としての彼を知ることが出来た。
劇中、小さい子供を乗せて線路を爆走したり車ごとビルからビルへの大移動かますのはどうかと思ったけれど、その小さい子供側も日頃から暗いトンネルや道路上をスケートボードで爆走したりするのでまぁどっこいどっこいか…という気持ちになってしまう。

これは余談だが、この間姉と外出した際に運転中の姉がこのわたくしを小馬鹿にしたことを言って来たので、丁度車がトンネルを走行中だったのもあり「いいのかい?あんた、私にそんなこと言って。壁伝いにコナンがスケボーで走ってきても知らないからね。轢いたらあんた、捕まるからね」というようなことを言って姑息に脅してやった。
しかし、ここはやはり姉の方が一枚上手である。「あっちだって道路交通法違反してんだ、文句は言わせねぇよ」等と鼻で笑いながら言い放ってきた。圧倒的な言葉の圧力の前に、私は押し黙るしかなかった。圧力鍋で角煮にされるブロック肉の気持ちが、わかった気がした。

もしかしたら前後するかもしれないが、降谷さんというと観覧車の上で赤井さんと殴り合いの喧嘩をしていたのも印象深い。舞台は遊園地なのだから有り余る程に土地はあるだろうに、何故敢えてそこで喧嘩を始めてしまったんだろう。喧嘩の舞台の選び方がほとんどスマッシュブラザーズのステージの決め方と同じじゃないかと思った。任天堂か?任天堂の差金なのか?

赤井さんと降谷さんが人気キャラクターであるのは、SNSをやっているオタクの身であれば何となく察するというものだ。降谷さんの仕事や立場は劇場版を観ていれば何となく把握出来るのだが、赤井さんのことは未だにふかっとしている。焼きたてのカステラのようなふかっとした知識だ。
なんか、聞くところによれば新一の家に住んでる男の人も赤井さんじゃない赤井さんらしいのを最近になって知った。

あのねぇ、あんた方ねぇ、そんなポンポン別名義別人として暮らしてくれてますがねぇ、冗談じゃないっつーんだよ。黒の組織が居るんなら白の組織も居るってのか。じゃあ赤の組織も居るべきでしょうよ。そっちのが紅白でめでたいだろ。えぇ?そうだろう?

降谷さんといえば警察学校時代の話も欠かせないんじゃない。警察学校でのことならちょっと知識がある。何故ならNetflixに警察学校編というお誂え向きのアニメがあってそれを観たからだ。
ざっくり言うと、降谷さんと同期の皆さんの友情の物語だった。最終話で降谷さん以外が故人であること。そして各々の死因についてダイジェストでお知らせされてびっくりした。故人サイドも文句言ってると思う。「もっと尺を長めに取ってだな」くらい言う権利は故人にもあると思う。作りが良く、ストーリー構成も良く、とても面白かった。

降谷さんのご友人の話を出したので、最後にタイトルでも触れた話をしたい。降谷さんは降谷零という名前であだ名はゼロだそうだ。これに関してはちょっと文句を言いたい。文句というか、意見を言いたい。あだ名にしてはオシャレ過ぎないだろうか。あだ名とは本来もっと親しみやすいというか、なんかもう少し砕けていたりふざけているものというイメージが強くあった私にとって、零をゼロと読むかっこいいあだ名が衝撃だったのだ。

私にもかつて、幾つものあだ名があった。その中でも忘れられないものがある。それは、忘れもしない高校2年生の頃の体育の授業での出来事が全ての始まりであった。
あの日、体育館では高跳びの種目が行われていた。助走をつけて棒を飛び越え下のマットに着地するだけのシンプルな競技だが、我々は白熱していた。飛べない豚はただの豚だと互いを煽りながら、少しずつ上げられていく棒をどの高さまで飛ぶことが出来るかを仲間内で競い合っていたのだ。ただの豚になって堪るかと、我々は必死であった。あの日あの体育館に居合わせた全員がもれなくジブリの作画だった気さえして来る。

少しだけ補足させて頂くと私は体育が得意ではなかった。だから別にこんなに熱くならずとも、このノリにノらずに自分なりの成果を細々と残せればそれで良かった筈なのだ。しかし、以前跳び箱の授業があった時にも今回の高跳びと同じような流れがあり、やはり「飛べない豚はただの豚だ」のフレーズが飛び交った。飛び交う中、私は勇猛果敢に跳んだ。いや、飛んだ。気分は鳥だった。気分は、である。現実の私は思いの外手前で踏切台を踏み切り、跳び箱本体に猛烈なタックルを繰り出し跳び箱ごと崩れ落ちたのであった。
当時の光景を目の当たりにしたとある友はこう語った。「ラグビーの試合中継が突然始まったんかと思うほど、あれは激しかった」と。

話を戻そう。私にはそんな悔しい思いをした過去がある。今度こそただの豚になるまい、なるとしても上等な生姜焼きにでもなろうじゃないかという並々ならぬ決意があった。あの日の私の瞳は燃えていた。
そして、時は来た。私の番がやって来た。念入りにふくらはぎを伸ばし、ストレッチをする。見据えた先には高跳びの棒だけがある。あれさえ跳べば、跳ぶことさえ出来れば。ホイッスルが鳴り、一度大きく息を吐き出す。私は豚ではない、さながらイノシシだ。もののけ姫に出演したという存在しない記憶が蘇る程にはイノシシ役に入り込んでいた。私の敵は、あの棒だ。あの棒に一目散に駆けて行き飛び越えるのだ。やってやる!必ずやってみせる!

先に結果だけお伝えすると、私は跳ぶには跳んだ。いや、飛んだ。今回はこっちの表記で間違いない。けれど、飛びすぎた。正しく張り切って助走をつけ過ぎたのだ。想像以上のスピードが出た私の身体はついた勢いを殺せぬままマットの上に落ち、びっくりするくらい弾み、そのまま床に落ちた。

こういうことが起きた時、どういうことになるか皆さんは想像出来るだろうか?ひぇ〜っとか、ぎゃああっとか悲鳴があがるのを想像するだろうか?それとも大丈夫!?と心配して駆け寄ってくるクラスメイトを想像するだろうか?

正解はその場に居合わせたで「え〜〜〜〜〜っ!!??」と絶叫するである。
心配より驚愕が勝った体育館であった。思い返してもちょっとしたフェスみたいだった、声量が。

ゴムボールのように弾み、そこそこの厚さと高さのあるマットから床に落ちた私は左側を下にして落ちた。その際、脚を痛めてしまった。直ぐには理解出来なかったが、じわじわ広がる痛みの出所を痛いなりに特定しようと頑張った結果、ふくらはぎが怪しい気がした。数秒遅れで驚愕から心配に切り替わった友人達や先生がこりゃあ大変だと駆け寄ってきて、友人のうちの一人がふくらはぎを押さえて痛みとその箇所を先生に説明する私を見ながらぼそっとこう言ったのである。

「あぁ、そんな…福田のふくらはぎが…略してふくだはぎ……」

それから数日間、私のあだ名はふくだはぎだった。

だからってわけじゃあないけど、やっぱり零だからゼロってあだ名はめちゃくちゃオシャレだと思う。悔しささえある。せめてのもの抵抗で、私だけは彼をフルヤンバルクイナって呼んでやりたい。や〜い、お前の推しフルヤンバルクイナ〜。終わりです。今年も元気に共に老いましょう。





お陰様で晩御飯のおかずが一品増えたり、やりきれない夜にハーゲンダッツを買って食べることが出来ます