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猫一匹分のドアの隙間に

2023年の11月8日は世間一般的にはなんでもないような平日で、しかし福田家にとっては猫(ばあさん)の命日だった。猫(ばあさん)は括弧でばあさんがつくだけあって、17歳という猫にしてはそこそこのご長寿猫だった。
今日は少し遅れてしまったけれど猫(ばあさん)がこの世界を旅立ってから三年となり、漸く落ち着いてきて書けるものもあるかもしれない可能性に賭けてキーボードを叩いている。

何か書けたとしても辛気臭かったらごめん。何も書けなかったとしても、いやせめてオチをつけんかいって感じになったらごめん。でもなんだか書きたくなったので書きます。よろしくお願いします。

先にお伝えしておくと下書きも何もしないで書き始めているので全然未定なんだけど、文中に猫の最期について触れるものが出て来るかもしれず、最近大切な家族を亡くされた方、最近では無いにせよ傷がまだ癒えていない方にはオススメ出来ないかもしれない。先に謝罪したい。super sorry。

では、いってみよう。


まずはこの写真をご覧になって頂きたい。


それが仮にも一緒に暮らす家族にする顔か?という顔をよくしてくれた猫

うちの猫はどういう猫だったかというと、この写真で何となく伝わると思う。同居家族だからといって決して媚びることなく、猫という生き物として彼女は生きていた。
母の膝の上に寝転んで母がテレビを観ながら何の気なしに頭を撫でてやるとその撫で方が気に食わないとばかりに噛みつき、母が食事の支度に追われていると颯爽と現れてまな板を踏んづけ怒られていた。当の本猫は叱られようが怒られようが「人間ってのはでっけえ声が出るなぁ」と言わんばかりの顔でガンを飛ばすばかりだった。

猫と母の仁義なき口喧嘩(母勝率低め)

そうやってある意味で猫らしく、猫が猫のまま猫として生きた時間、実に17年。彼女は17年私の実家で生きた。

猫との出会いはよく覚えている。お母さんが犬を動物病院に連れて行った時、動物病院の入り口に子猫を貰ってくださいと書いてあるチラシを見つけたのだ。母親曰く、天使のようだったとのこと。当時先代猫を亡くした傷がほんの少しだけ癒え始めていた母にとってその出会いは運命にも近かったのだろう。家族の賛成もあって、数日後に猫は家にやって来た。
兎に角なんでも口に入れてみてから考えたがるタイプの猫だと直ぐに判明したため、猫の口に入りそうなものはそこら辺に置いておけなくなった。

ある日は私の膝にかけ登りカツ丼を「もしかしたら猫も食べられるやも」と主張したが、「そんなはずがないんだよなぁ〜」と呑気に笑って退かそうとする私に彼女は子猫ながらに覇王食の覇気のマジギレを披露した。あの日の彼女にとってのラフテルはカツ丼のどんぶりだったのかもしれない。

猫はすくすくと大きくなった。腕っぷしの強い猫で、噛む力引っ掻く力暴れる力に長けたオフェンス全振り猫だったので17年の中で一度も彼女を風呂に入れることどころか足を洗うことさえも叶わなかったが、毛色もあってそこまで汚れが目立たなかった。父はこのことについて「多少薄汚れていた方が敵に見つかりにくいから」と評価して、母はヒルナンデスに夢中で聞いちゃいなかった。私の家、大体いつもこんな感じ。


膝を陣取りたいのか命を取りたいのか紛らわしい気迫の猫

猫は野良育ちの雑種なのもあって大変頑丈に育った。風邪ひとつ引かず、病気にもかからず、逆にインフルエンザに感染したりノロになったり何かと発熱とご縁がある我が家の中で一番の健康体の女だった。
そんな猫が具合を崩したのは3年前の9月頃だ。仕事中、母親から連絡があった。猫が全然トイレに行かないのだという。他にも症状を聞いてみたところ「強いて言うならむやみやたらに飯を食う、かなぁ」とのことだった。強いて言ったにせよ癖が強すぎるだろと私は思った。

症状を調べてみると甲状腺というものに異常を来すとそういった症状が出るかもしれないとのことだった。幸い職場には猫好きで多頭飼いしている同僚が何人か居たので、症状を話したら病院に連れて行くと良くなるよと言ってもらえてすっかり安心しきっていた。

夜勤明けで母に猫を病院に連れて行くと言うと、「あの猫を病院に連れて行くんですか?本当に?」との返事だった。気性の荒い猫を病院に連れて行くということは一筋縄ではいかないのだ。ただキャリーに入れるだけではない。まず、猫を洗濯ネットに入れなければいけない。これはかかりつけの獣医さんにお願いされたことだった。
これをする時の係は決まっていた。母が洗濯ネットを広げて入れたキャリーを縦に持って構え、私が傷だらけになりながら猫をそこにシュートする。文字で書くとシンプルに見えるかもしれないが、全然シンプルなんかじゃない。まずは猫に怪しまれることなく猫を部屋に閉じ込めなければいけないし、ただでさえ抱っこの類を嫌がる猫を確保しなければならない。確保したところで大暴れする5キロほどの猫を今度は狙いを定めてキャリーバックにダンクシュートしなければならないという大役を任されているのだ。
私がただならぬ緊張感で挑む中、ただそこでキャリーを縦にして押さえているだけの母は

「いやっ!怖い!!お母さんどうにかなりそうっ!!早くして!!」

等と随分勝手なことを言う。現在進行形で傷だらけでどうにかなりかけている実の娘がお前の目の前に居るぞと言いたいが、私の両手の限界も近い。急いで猫をキャリーの中の洗濯ネットに詰め込み、目にも止まらぬ早さでチャックと蓋を閉める。当の猫はクレーマーのおっさんのようにわうわうと低い声で文句を言い続けていた。これだけ喋られるなら本当に歳の割にもりもりと飯を食うちょっとトイレの遠い猫の診断がおりるんじゃないかとさえ思ったが、ここまで来たら行かないわけにもいかない。

まさかここまでやっておいて「今日はリハーサルです、明日は今日以上のバイタリティを期待します」と人間側が和やかに解散をしたところで猫が納得するはずもない。私はキャリーを抱えて病院に向かった。猫は道中もずっとおっさんの声で鳴いていた。もう、もしかして本当におっさんが乗ってるんじゃないかと信号待ちの度バックミラーを確認する程だった。バックミラーにおっさんが映ることはなかった。心底安心した。

あとは辿り着いた病院で猫を診てもらい、何でもないですよと。なんでもないけど、なんか全てが良くなる注射でも打っておきますわと言われるものだと思っていた。バックミラーにおっさんが映らなかったことで全ての安心を使い切っていたのかもしれない。けれど、優しい先生から言われたのは安心とは程遠い言葉だった。

「もう打つ手がありません」

猫は相変わらずわおわおと低い声で鳴き、私は呆然としていた。そこから先生の話を聞き、写真を見せてもらい説明を受け、多分何かを話したんだけど、そのほとんどを覚えていない。覚えているのは人間の目では決して透かして見ることの出来ない猫の中の写真で、真っ白な腫瘍。

「これが猫の身体の中を圧迫していて、これが排泄の邪魔になっている。これが膀胱も塞いでしまうと、もうどうすることも出来ない。この子は高齢で手術も難しい。投薬で緩和するにも臆病な性格の子で、薬を与えるのも難しいのであればこのまま見守るしかない」

ざっくりと言えばそのようなことを言われ、なんにも分かっていないのに分かりましたと言ってお会計を済ませて外に出た。猫は私の気持ちも知らずにわ〜〜〜〜おとこの期に及んでまだ文句を言っている。「わ〜〜おだよね、本当にそうだね」と言って、キャリーごと猫を撫でながら動物病院の駐車場で私は泣いた。猫はそれにさえ文句を言っていた。どうしてお前はそうなんだ。


それでももりもりとマグロの刺身を食らっていたガッツのある猫

写真は2020年11月6日の猫。諸事情あって母が入院していた間に少し元気を失いつつあったものの、母が退院してきて大好物のマグロの刺身を出されるともりもりと食べた。多分、猫自身が食べたかったというよりは満身創痍で退院してきた母ちゃんが出したものだから食べたんじゃないかと思っている。猫にはそういった仁義や漢気があった。雌だけど。

その日の夜に猫は一気に体調を崩し、二日後に亡くなった。安らかに眠るようにとはいかず、とても苦しんだ。最期は動物病院に連れて行き「この子がもう苦しまずに済むように、助けてください」とお願いした。猫は最期に大きな声で鳴いて旅立っていった。行きと帰りでダンボールの重さは変わらないのに、帰りの方が軽いような気がした。猫がもう文句を言わないだけで、息をしないだけで、ずっとずっと箱の中身が軽くなってしまった気がした。

家族で話し合って猫は敢えて火葬せず、いつも駆け回って楽しく遊んでいた庭に埋めることにした。キャリーにも洗濯ネットにも大人しくおさまらなかった女が骨壷におさまってじっとしているはずもないと思ったので、私も賛成した。いつも昼寝に使っていたタオルを敷き詰めたダンボールの中、まるでちょっと昼寝でもしているかのような寝顔の猫に、私も姉も泣いていた。父は人前で涙を見せない人だから泣かなかった。特に泣いていたのは一番猫と喧嘩し、一番親交が深く、一番絆があった母だ。

母はおいおいと漫画のように泣きながら

「大好きなおやつあげるからね、袋に入ってたら食べられないからね、お母さん開けてあげるからね…」

と言って猫の身体の上に猫の大好物のキャットフードをぱらぱらと撒いた。これに関してはいつも冷静な方のお姉ちゃんも泣きながら「やり方が他にもあったんじゃないかな」と口を挟んでいたし、今思い出しても姉の言う通りだったように思う。父はただ一言「だから猫と喧嘩になったんじゃねえのか」とだけ言った。そんな風に、じっとしんみりもしていられない我が家らしい見送りをした。あれからもう3年経つ。


吸うと赤ちゃんと土埃の匂いのブレンドのような香りがした猫

猫を亡くした後で見た中で、忘れられない夢がある。それは私が仕事で疲れ切った日に見た夢で、なんだかもう何もかもがやるせなく、自分の葬儀ではでっかい犬に囲まれて多幸感に満ち溢れてる間に一思いにやってくんねえかなだのとどうしようもないことを考えながら気づいたら眠ってしまった日だった。

夢の中の私は、見たこともない大きな大きな犬の前に居た。その犬はどんと寝転がっていて、触っても怒らない。私は遠慮がちにその犬に何か話しかけたり、様子を見ながら撫でたりしつつ何となくこれは夢だと気付いていた。だからこそ醒めてしまうのが惜しくて、思い切ってその犬のお腹に顔を埋めたんだと思う。もふっと埋まる感覚と、鼻いっぱいに広がった匂いが 忘れられない。それは紛れもなく、夢の中でしか会えない知らない大きな犬の匂いなんかじゃなかった。洗ったことがないのに甘くて、赤ちゃんみたいで、でも土埃が遅れてやって来る匂い。17年で覚えた匂い。涙が出た。

「来てくれたの」

そう言って泣いた私の前に犬はもう居なかった。そこに居るのは目つきが悪くて、気性が荒くて、でも仁義と漢気のある猫一匹だった。猫は大層ばつの悪そうな顔をして、はんっと鼻で笑うように歩いて行ってしまった。しけた顔してんじゃねえぞと言わんばかりに、彼女はドアの隙間から帰っていった。

猫と過ごした日々は、何色とも言い難い。どんな形とも例え難い。猫とは液体とはよく言ったもので、猫はすっかり生活の中に溶け込んでいた。だからだろうか、私は今一人暮らしをしているけれど実家に帰ればよく猫の影を見る。見切れていくかぎ尻尾、カーテンの影の三角耳、至る所に。

Twitterをしていると、暮らしていた動物との別れの悲しい話を聞くことも多い。そんな中でどうやって気持ちを前に向けていけばいいか、こんなにも悲しいのにこの先この悲しさにも寂しさにも慣れていけるだろうかという質問を頂くことも多いが、別に無理に前向きにならずとも慣れたくない感情に慣れずともいいんじゃないかと私は思う。

現に、猫を生活から失って3年になるが今も全然寂しいし悲しい。まだ実家に居れば猫がまだ居るような気がして、そして帰ってからもう居ないことを思い出して落胆したりする。でも、居ないけど居るなとも思う。猫が居て、猫が暮らして、猫が生きた場所に猫をよく見る。居たんだなと過去形の日もあれば、居るなと進行系の時もある。上手く言えないけれど。
猫はきっと本当に液体なんだろう。日常と暮らしに上手く溶けている。肉体が無くなった程度ではちょっと薄まるくらいで全然居るのかもと思えてきた。

だから私は、疲れたら実家に帰る。そして幾つも、何度でも、猫を見つける。

夏場の玄関マットの上に、冬場の食器洗い機の上に、台所のシンクの中に、洗面台の中に。開けたAmazonの箱の中に、居間の梯子の上に、猫トンネルの中に。納戸のガラス戸の先に、仏間の襖の奥に、靴箱のたぬきの置物の横側に。

一階の居間に居ると遮っていくかぎ尻尾を見つける。やるせなさにうちのめされそうな時にカーテンの中に三角耳の影を見つける。

一昨日は泣いていた時、風も無いのにドアが急に開いた。猫一匹分のドアの隙間が愛おしくて、力を貰って、私は猫の名前を呼んだ。ただ一言、「あんず」と。居るのに居ない猫は何も言わなかったが、きっとこれでもかとばかりのしかめっ面をしていたんだろう。そうに違いない。

お陰様で晩御飯のおかずが一品増えたり、やりきれない夜にハーゲンダッツを買って食べることが出来ます