アナルコキャピタリストの戯言:リバタリアン的、フェミニズム的観点による子供を『守る』という名の過干渉

にもかかわらず、日本における児童ポルノ法の定義では、性交可能な性交同意年齢(13歳)や女性の婚姻年齢(16歳)に達している18歳未満の児童が対象に含まれている。これは、成熟した判断能力を備えていない児童を、永久的な記録性をもつポルノグラフィの被写体とされる危険から保護する目的によると説明されている[197]。(百科事典Wikipediaより引用)

これは、極端な話ポルノグラフィが有害であり、女性への暴力と唱えるマッキノン・ドゥオーキン思想の焼き直しである。ここで『ポルノグラフィ防衛論』から引用しよう。

実際のところ、マッキノンやその他のフェミニストが提唱するポルノグラフィ規制法は、はっきりと女性と子供の類似性に言及している。マッキノンは次のように語っている。「子供に法的救済措置を講ずる理由と同じ理由がそのまま社会での男性に対する女性の立場にもあてはまる」。ドウォーキンやマッキノンが起草したミネアポリスのポルノグラフィ規制条例は次のように述べている。"たとえ肉体的強迫を受けていなくても、子供がポルノグラフィへの従事に同意することは不可能であり、そのため子供には特別な保護が与えられるべきである。同様の理由により、女性の福祉に対しても、肉体的および精神的な保護が与えられるべきである"。『ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性』ナディーン・ストロッセン著、岸田美貴訳、松沢呉一監修、2007年。ISBN978-4-7808-0105-7、283-284頁。

これは女性は「子供と同じく保護が与えられるべき」という文脈ではあるが、
マッキノンがどんな人か。
例えば、これを見ると良い。

強姦被害者の話と女性がセックスについて語る話とを比べてみるといいだろう。両者は、非常に良く似ている。性行為(正常な行為)と強姦(異常な行為)の大きな違いは、性行為はただ頻繁に行われているというだけで、それを誰も変に思わないだけのことだ。『ポルノグラフィ防衛論 アメリカのセクハラ攻撃・ポルノ規制の危険性』ナディーン・ストロッセン著、岸田美貴訳、松沢呉一監修、2007年。ISBN978-4-7808-0105-7、180頁。

つまり、「セックスは強姦と変わらない」と豪語しているのである。

勿論こういったポルノグラフィ敵視の理論は、最近では『ポルノグラフィ防衛論』以外にも批判がなされているが、現在のフェミニズムでは子供は自己決定能力が不十分なため保護と制限が基本と考える立場が未だ主流である。

しかし、おかしいではないだろうか。

同じような事が黒人や女性になされれば、「人間扱いしていない」と非難に遭うであろうが、子供となればその権利を制限で擁護しているようであり、実は無頓着なのである。

事実中高生が社会で発言できる機会はメディアでは少ないが、インターネットで中高生の生の声を聞くことはノイズがあまりにも多いのだ。LINEQもサービス終了したしな。

昔のTwitterの友人が、「子供のためと言いながら子供にしてくれることは少ないし」とボヤいていたのを見て、共感した事があった。

それは児ポ法絡みの事だったが、このやり取りは今でも覚えている。

私はどうしても、表現規制反対派が唱える「現実の児童を救う」という言葉が薄っぺらく感じてしまうのだ。

現実の児童を救う、とは?

どのような子供たちを救うのか?

「ぼくは救わなくていい」と言った子供は?

それらに対する答えを、我々近代社会は用意出来ていないようだ。

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