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弱さのマウント

大学には様々な地域から人がやってくる。初対面となると話をするのは大概地元の話なんかが多い。
大学1年生だった頃「地元が田舎である」と言っていた九州のほうからきた人がいた。
その根拠として「コンビニにいくために車で30分くらいかかる」と頑強に主張されたのだが、個人的には「知らんがな」状態でその人の話を聞いていたものである。

人はマウントを取り合う生き物である。
多くの場合はひとを蔑んだり馬鹿にしたりして、自分の方が上の立場にある、ということをことさらに強調してマウントをとるものだが、時に「自分の方がひどい立場にある」という「弱さのマウント」をとることがある。

「自分は人より頑張っている」、「大変な思いをしているのは自分だ」、「自分の方がかわいそうだ」と思ってしまって、そしてそんな大変さや可哀想さを、人は理解してくれていないと思ってしまうのだ。
これはそれほど不自然ではない心のあり方だ。わからなくはないのだが、ともすると「謙虚ではない」といえるのかもしれない。

自分自身が大変な思いをしていると感じているのなら、「人もまた自分と同じように大変な思いをしている、と感じるのだろう」と想像するのは難しくないはずだ。でも、不思議なものでそれがなかなかできない。

弱さのマウントとは、「大変だね」、「つらかったね」といった優しい言葉を引き出すための呼び水のようなものなのだろうか。自分”しか”抱えていない大変さや弱さを、誰かに認めてほしいという思いであり、もっと言ってしまえば現実とのせめぎあいのなかであがいても、いたずらに時間ばかりが経って変革の兆しが見えない現実を受け入れさせてくれる、優しい言葉を求めているのだろうか。

本来であればその現実からどう抜け出すのかを考えて、人生を漸進的な改善に向かわせることが大事ではある。多分だが、それを諦めて「私は大変で…」といっているわけでもなく、それはわかっていても「私は大変で…」と言わざるを得ないのかもしれない。それは本人にしかわからない。

自分自身の辛さを殊更に口にせずにいるひたむきな姿勢は心を打つし、そしてそれを忖度することの優しさもまたあろう。

世の中を見ればそんな「弱さのマウント」にあふれている。わざわざ自らの弱さを仲が良いわけでもない誰かに伝えている時点で求めているものがある、と気付ける自分になると、感情にちょっとした奥行きが生まれるのかもしれない。

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