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「好き」の原体験を探る

そういえば、ことあるごとに文章を書くのが好きだ好きだと言って憚らない私だが、そもそも文章を書くのが好きになったきっかけはなんだったのだろうか。

仕事をする前、大学の時分には暇を持て余してつたない小説を書いたことがあった。どれも陰鬱な作品ばかりで小説とは人間性がよく出るものだと我ながら感心したものだが、同時に小説を書く作業というのは苦難以外の何物でもなく、おそらく私には向いていないのだろうと半ばあきらめてこんな調子でエッセイやコラムのようなものを書き散らすようになった。

文章への愛着は高校時代にもあった。私は当時京大を受験しようと思っていたのだが、その理由の一つが「記述式の問題がすげえ多いから」だった。志望動機としては「家に近いから」並みにひどいわけだが、文章を読んでロジカルにあれこれ書いているだけで「楽しいー☆」となれるほどお気楽な高校生だったのだ。
もっとも、皮肉にも私は記述式問題の一切ないセンター試験(現在の共通テスト)で過去最低の点数をたたき出してしまい、京大を受けることなく大学受験を終えたのは苦い思い出である。

中学のころにさかのぼると、確か行事が終わるごとにとりあえず何かを書かねばならない「作文ノート」がひとりひとりにあったのだが、これを書くのも楽しかった。運動会を終えてこう思ったとか、合唱祭を終えてこう思ったとか、何を書いても別に点がつくわけでもなく、先生からはぼろくそ言われるわけでもないので、かなり自由気ままに書けていた。

これ以前に戻ると、あまり文章を書くことに喜びを覚えた記憶がない。
となると、たぶん私の書くことが好きになった原体験は、中学時代だといえそうだ。

しかし、なぜあの時に文章を書くことを楽しいと思ったのだろう。
中学の頃の作文は誰が何を言ってくるものでもなく、自分がただ書きたいものを書き連ねるのがよかったのだろうと思う。内容も支離滅裂だったので小さな宇宙みたいなものがあの作文ノートの中には渦巻いていたことだろうが、自由に・思うように書くという「表現のいとなみ」に楽しさを覚えた。

それはおそらく、以前「氷山の一角」という話を書いたように、幼年期に自分の言いたいことを思うように言えなかったこともあって、言いたかった言葉が自分の中に多少なりとも蓄積されていたからなのだろう。
確かにいまでも、話し言葉にはなかなかできないことでも、書き言葉だと時間を費やして「これだな」という表現が自分の胸の中に訪れることがあって、少し胸がすっきりすることがある。
もやもやしたものが言葉になる経験は、いまでも変わっていないようだ。

「文学とはやっとのことで再発見することができた子供時代のこと」とフランスの哲学者であるジョルジュ・バタイユは語ったけれども、まだ幼年期の支離滅裂な言葉たちが織り成す小さな宇宙のかけらは、私のこころのなかに残っているのかもしれない。

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