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オタクとJDと仕事できる風の若者からイデア論を考える

いまではもう死語なのであろうが、かつて「オタク」と呼ばれていたひとたちには、ファッションや体形などで一定のモデルに収斂する傾向があった。
大体はチェックのシャツでめがねをかけていて小太りで、そして滑舌があまり良くなく、総じてハキハキとはしゃべらない。もちろんオタク全員がそうだというわけではないのだが、不思議と近似していくのが世の常であった。

人間が、一定のモデルに収斂するという現象はオタクだけのものではない。
大学生のころには女子大生の収斂がよくみられた。当時はみんな肩にかかるくらいの髪の毛をしていて、茶髪で、化粧も似たような感じであった。
当時はそれを揶揄したような発言も時折耳にしたが、人間は多くの場合人と群れてなんか安心するという側面もあるので「そんなもんなんだろうな」という気がする。

そしてこれは若い男にも言えることである。仕事に向かうときに出会った男性二人組がとんでもなくうり二つだった。二人とも体と顔がでかく、ブルースーツでなぜかパツパツで、そしてツーブロック。
一方的な印象ではあるが仕事を力業で進めそうな感じのいでたちをしていたのだ。思えば、仕事ができそうな人(できるとはいっていない)というのは決まってこういう感じの姿形をしている。

ところでその昔、プラトンという哲学者がいたが、彼は「イデア論」という考え方を世の中に提唱した。
イデアとは、我々が頭の中に抱いている理想像のことである。たとえば、適当に書いて線がゆらゆらの三角形でも、我々はそれが三角形であると認識する。
考えてみると、「適当に書いて線がゆらゆらの三角形」は、本来の三角形ではない。なぜなら三角形とは「三つの直線で囲まれた図形」なのであって、線が真の意味で直線ではない限り三角形ではないからだ。でも、我々は何の支障もなく「適当に書いて線がゆらゆらの三角形」を三角形であると認識できてしまう。もっといえば、私たちは現実を直視し、極めて厳密な意味で正しい判断を下すことができていないということである。

こんな風に考えてみると、オタクも女子大生も仕事ができそうな若い男も、それぞれに同じようなイデアを抱き、それに邁進しているのかもしれない。イデアを追い求めてなぜか一定のモデルに人間が収斂するということは、逆に言えばオタクはオタクで同じようなイデアを抱いているということであり、女子大生は女子大生でおなじようなイデアを抱いていると言うことである。仕事ができそうな若い男についても同じなのだ。

なんだか不思議な気になってくる。お互い面識もないのに、なぜかよく分からないが人間は一定のモデルに収斂しているのだ。流行なのか指導者がいたのかわからないけれども、私たちの思考回路はどこかで誰かとつながり、そして結果的にイデアを共有している可能性がある。自由に振る舞っていいと言われているのに一定のモデルに収斂するというのだから、これほど不思議なものもあるまい。

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