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一人一人が決断して世の中変わるって話

人生は決断の連続であるという意見がある。まったくもってその通りだ。
決断とは「決めて断つ」と書く。要は、何かをすると決めて、他の可能性をその瞬間に捨象する行為が決断なわけだ。

たとえば、今日何を食べるかも決断である。カレーを食べると決めれば、おそらく大概の人はラーメンやかつ丼を食べることをその瞬間は諦めることになる。ほかにも「いまから『いちご100%』を読もう」と決めれば、その瞬間は「めぞん一刻」や「サンクチュアリ」を読むという可能性をあきらめている。

こうした「決断」は大なり小なり、日常にありふれている。それだけに、決断のタイミングはいろいろあるものなのだが、特に大きな決断であればあるほど「決断ができるのは自分だけだ」ということが言える。
大きな決断というと、例えば「どんな人生を生きるか」とか「どんな仕事でどんな立場まで上がるのか」とか、生き方などに直結するようなものだ。

自分自身が大きな決断を下すとき、重要なものはいくつかある。思うに、その一つが「美意識」であると思う。
大きな決断をするとき、だれしも周りの人に相談をする。その際に周りの人からはいろいろ意見を言うことはあるけれども、参考になることこそあれ、正解などどこにもない。「これだな」と思って決めるのは自分なのである。
「これだ」と決める際に、自分自身がその選択肢を美しいと思えるかどうかという美意識は、きわめて肝要だと思う。美意識をもっと広く言えば、価値観と言ってもいいのかもしれない。

そうした美意識や価値観に基づいて、個々人が自由に大きな決断を下し続けていくと、個人が変化することになるので、少しずつ世の中は変わっていく。
「時代は変わったなあ」という人が時々いる(というか私もそうだ)が、時代の変化とは偉い人が「いまからこうしてください」といって作るものではない。個々人の大きな決断を通じて、行動が変わっていくことによって作り上げられていくものだ。
時代の変化を醜いものととらえるか美しいものととらえるかはまさにその人の価値観や美意識に依るわけだが、何らかの大きな決断を下した誰かが少なくともこの世界にいたことは、見落としてはならない事実なのではないか。

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