おおぬき

ゆとり世代で全国紙記者。娘が無事爆誕し、父親業も始めました

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【育児】舌を出す娘

表現という言葉は「表に現れる」と書く。 表情や言葉などを通じて、「表」側に感情や考えが「現」れることが、表現の根本である。 ということは、前もって表に出ていない、表現されていない何かが内側にある、ということでもある。 表に現れているもの以上の「表現」が自己内部に広がっているということだ。 誰しも「ああいえばよかった…」などと思い悩んだ経験があろうが、それは「表現できなかったもの」そのものなのである。 最近、娘が笑顔で舌を出すようになった。ロックバンドの「KISS」よろしく

    • 一人一人が決断して世の中変わるって話

      人生は決断の連続であるという意見がある。まったくもってその通りだ。 決断とは「決めて断つ」と書く。要は、何かをすると決めて、他の可能性をその瞬間に捨象する行為が決断なわけだ。 たとえば、今日何を食べるかも決断である。カレーを食べると決めれば、おそらく大概の人はラーメンやかつ丼を食べることをその瞬間は諦めることになる。ほかにも「いまから『いちご100%』を読もう」と決めれば、その瞬間は「めぞん一刻」や「サンクチュアリ」を読むという可能性をあきらめている。 こうした「決断」は

      • 「エアコンが効いているところでだらだらしていればお金がもらえる仕事」で満足できるのか

        中学生のころにあるおじさんが、学校でキャリア教育に関する講演をしてくれたことがあった。 そのおじさんは「キシさん」という人で、もったりとした不思議な話し方をするおじさんだった。 講演後にはその人の物まねが一瞬流行するくらい妙な話し方ではあったのだが、肝心かなめのキシさんが一体何者であったのかはよくわかっていない。 そのキシさんが言っていたことは断片的にいくつか覚えている。「生涯賃金が全然違うから正社員になったほうがいいよ」とか「履歴書の名前は丁寧に書いたほうがいいよ」とか、

        • 【育児】娘にはすでに「このおもちゃは私のものだ」という意志があるっぽい

          私が小さかったころ、車のおもちゃである「トミカ」でよく遊んでいたものである。 その際に父親がやってきて「ちょっと見せてよ」と、トミカを一台すっと取って眺めていた時、私は心の底から「それは俺のおもちゃだから早く返してほしい」と思いながら、気の弱い私は何を言うこともなくただ父親が「奪った」トミカをまじまじと眺めていたものだった。 これは物心ついたころ、たぶん幼稚園ぐらいのときの話であるから、年齢にして4~5歳のころだ。振り返ってみればあのころには間違いなく私の中に「このおもちゃ

        【育児】舌を出す娘

        • 一人一人が決断して世の中変わるって話

        • 「エアコンが効いているところでだらだらしていればお金がもらえる仕事」で満足できるのか

        • 【育児】娘にはすでに「このおもちゃは私のものだ」という意志があるっぽい

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          若いころと年を重ねた時とで夢の重みは違う

          以前も取り上げた、お世話になっていた先生の話である。 先生に感謝の手紙をお送りしたとき、私は誤って便箋を2枚重ねずに送ってしまったことがあった。目上の人に対する手紙では失礼な行為のひとつだが、その際に先生からの手紙でお叱りを受けたことがあった。 そのとき、「君は記者であるから言っておくが、社会常識を知ってあえて踏み越えるのと、知らずに踏み越えるのとでは大きな違いがある。記者という仕事は社会常識を知りながら、あえて踏み越えることが時には必要な仕事だ」と書いてあった。 すでに物故

          若いころと年を重ねた時とで夢の重みは違う

          小説みたいな現実って本当にある

          「事実は小説より奇なり」という言葉があるが、人生を振り返るとごくまれに「事実が小説より奇」だったことがある。 いまでも「こんなことあるのか」と思ったのは、2006年の夏の甲子園の決勝戦である。 端正な顔立ちで「ハンカチ王子」として一躍有名になった斎藤佑樹擁する早稲田実業と、夏の甲子園三連覇のかかる田中将大擁する駒大苫小牧の試合だ。 もとよりメディアの報道が過熱して盛り上がっていたのだが、決勝戦は引き分け再試合となり、再試合となった決勝ではマウンドに斎藤投手が立ち、駒大苫小牧

          小説みたいな現実って本当にある

          志ある方が「行政手続き」に苦労しているのは社会にとって損失が大きすぎる

          手術の練習に使うための子供の心臓の模型を作る会社の社長さんからお話を伺う機会があった。もともとものづくりを手掛けていた会社だったが、ひょんなことから心臓の模型を作ることになったという。 日本で様々な規制が多いことはよく知られているが、医療の分野ではとりわけ規制が多い。 医療者が手術の練習をするためのものであるため、国に「販売してもよいか」という薬事承認を得なくてはならない。 この薬事承認を得るという手続きが極めて面倒くさく、我々が想像する以上の役所の「たらい回し」に苦しめら

          志ある方が「行政手続き」に苦労しているのは社会にとって損失が大きすぎる

          取材を受けてもらえるのは会社の看板のおかげである

          ふと思ったのだが、大手メディアの記者は、基本的に断られる経験をあまりしていない。 取材を申し込めば「ぜひ」と相手も乗り気であることも多い。いうまでもないが、それは当然取材先もパブリシティという形で利用できると考えるからである。都合が悪いものではない限り、基本的にウェルカムな状態で受け入れてくれる。そうでなくともとりあえず相手にしてもらえることは多い。 断られたり無下にされる経験を知らないと、人は往々にして生意気な態度をとる。場合によってはいたく横柄になったりしてしまう。 記

          取材を受けてもらえるのは会社の看板のおかげである

          鈴鹿サーキットに行ってF1生観戦をしてみた〜後編〜

          鈴鹿サーキットは三重県の「稲生」という駅の近くにある。降り立ってみると結構な田舎だ。 駅から20分ほど歩くと鈴鹿サーキットが突如あらわれる。レースを控えてか露店やショップが並んでおり、余裕で2時間くらいの暇つぶしができる。 円安の時代だからなのかモータースポーツだからなのか、外国人がやけに多い。日本人があまり目につかないくらいであった。余談だが、トイレが異常に混むので名古屋などでトイレを済ませておくのが吉である。 モータースポーツはスタートの瞬間に我慢できないくらい異様にテ

          鈴鹿サーキットに行ってF1生観戦をしてみた〜後編〜

          鈴鹿サーキットに行ってF1生観戦をしてみた〜前編〜

          私にはいくつかの夢がある。 大小様々あるのだが、そのなかに「生でF1を見る」というものがあった。 私は運転は下手なのだが自動車がまあまあ好きで、「グランツーリスモ(GT)」というプレイステーションのゲームにハマったのが契機である。 他の自動車ゲームでは架空の車で架空のコースを走るものがほとんどだが、そうしたなかでGTは実在する車で実在するコースを走ることができることが幼心に実に感動的で、どっぷりはまったのだ。 GT4になると日本にあるコースも多く走れるようになり、「筑波サ

          鈴鹿サーキットに行ってF1生観戦をしてみた〜前編〜

          「好き」の原体験を探る

          そういえば、ことあるごとに文章を書くのが好きだ好きだと言って憚らない私だが、そもそも文章を書くのが好きになったきっかけはなんだったのだろうか。 仕事をする前、大学の時分には暇を持て余してつたない小説を書いたことがあった。どれも陰鬱な作品ばかりで小説とは人間性がよく出るものだと我ながら感心したものだが、同時に小説を書く作業というのは苦難以外の何物でもなく、おそらく私には向いていないのだろうと半ばあきらめてこんな調子でエッセイやコラムのようなものを書き散らすようになった。 文

          「好き」の原体験を探る

          仕事を経て、人の顔は変わるのかも

          しわひとつない黒々としたスーツに身を包む若者が、街を闊歩する時期である。 顔つきにはなお大学生のあどけなさが残り、社会人特有の幾ばくかの渋みみたいなものが全く感じられず、その様子を人は「若い」と形容する。 高校1年のころの担任教諭が「中学を卒業して間もないキミたちは実に幼い顔をしている。とりわけ男子は子供の顔をしている」と言われたものだ。 当時はその言葉の意味がよく分からなかったが、時間が経ってその言葉の意味は説明されるでもなく腑に落ちていく。それだけ私も年をとった、という

          仕事を経て、人の顔は変わるのかも

          単調な表現の世界は退屈

          かつてユーチューブやツイッター、フェイスブックといったSNSを見るときに、広告に悩まされたことなど一切なかった。新型コロナの流行などもあって利用が進んだせいか、かなり広告の数は増えてきており、嫌でも目に付くようになった。 企業がアカウントを持って発信しているケースも珍しくないため、一見すると普通の投稿なのか広告なのかがよくわからないこともしばしばだ。 こうした広告は男女や年齢によって出し分けがされているものだが、私の場合だと大体「マンガ」か「まともなマッチングアプリ」の広告

          単調な表現の世界は退屈

          【育児】枕と化した私

          生まれた頃の娘は寝返りを打てないので眠る時に動くことはさほどなかったが、いまではつたい歩きができるので非常によく動くようになった。毎度素晴らしい寝相で感心するものである。 この間娘が体調を崩し、鼻が詰まって眠るのに苦労していたことがあった。 呼吸のしやすい姿勢を探してか、何度も頭の位置をずらすのだが、偶然横になっていた私の胸の辺りに頭をことんと落としたことがあった。 それきり胸、脇腹、肩、太ももなど私の体の至る所に頭を落として娘はその寝心地を確かめていた。時折私の下腹部に

          【育児】枕と化した私

          オタクとJDと仕事できる風の若者からイデア論を考える

          いまではもう死語なのであろうが、かつて「オタク」と呼ばれていたひとたちには、ファッションや体形などで一定のモデルに収斂する傾向があった。 大体はチェックのシャツでめがねをかけていて小太りで、そして滑舌があまり良くなく、総じてハキハキとはしゃべらない。もちろんオタク全員がそうだというわけではないのだが、不思議と近似していくのが世の常であった。 人間が、一定のモデルに収斂するという現象はオタクだけのものではない。 大学生のころには女子大生の収斂がよくみられた。当時はみんな肩にか

          オタクとJDと仕事できる風の若者からイデア論を考える

          人の顔を見るといつも――

          極めてばかばかしい話で恐れ入るのだが、記者という仕事は様々な人と会うものである。 それだけに、対面で挨拶をしてしばらくアイスブレイクよろしくあれやこれやと話すわけだが、いつもその際に私が人の顔を見て思っていることがある。 それは「人間の顔はだいたい何らかの動物に似ている」ということである。 ともすると人をからかうときなんかに「ウマ面」とか「サル顔」と言われることもあるが、いろんな人の顔を見ると「このひとはゴリラっぽいな」とか「たぬきみたいだなあ」とか「なんかナマズみたいな

          人の顔を見るといつも――