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2021年3月11日に寄せて

東日本大震災。あれからもう10年。
あの頃の日本中も大変な状況だったけれど、まさかまたこんな状況が始まるとは思ってもみなかった。今のこの状況と単純に比べることは到底できないけれど、あれが”底”だと思った人も多かったと思う。私も正直そうだった。
けれど今、2021年1月に、また違った未曽有の”底”を経験している。直観的に、あの時に感じたことや気づかされたことの中には、今また役に立つことがきっとあって、今それをもう一度確認する必要があるんじゃないか、と感じたので書きとめようと思った。

あれから10年…でまずはじめに思い出したこと。
それは、勤務先から小学校低学年と保育園年長の二人の子どものところへ帰ってあげられなかったこと。日が暮れても停電が復旧しない薄明かりの中、一番最初に会いたいと思ったであろう、そしてほかのお母さん同様迎えに来るだろうと思っていたのに、母も父もその日は迎えには来なかったのだ。子どもにとってみれば泣きつくして涙が枯れるとはまさにこの状況だったのだろうと今でも悔やまれてならない。

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14:16にビルの高層階で業務中だった私は、揺れの大きさに本当に驚いた。コロコロのついた事務椅子がいうことを聞かないくらい揺れて、机の下で机の脚と椅子の脚をとにかく必死で握っていたことを覚えている。背の高い金属でできた扉付きの書類棚の上の部分が落ち(幸いケガ人はいなかった)、窓の外を見るととおくコンビナートが燃えるのも確認できて、戦慄が走った。そのあと、誰かがインターネットでヘリコプターが東北の太平洋沿岸を撮影した映像を検索して表示していたのを横から見て、絶句した。

オフィスの者は全員非常階段で延々1階に降りた。私はとにかく帰宅したくて、貴重品を持ち上着を羽織り最寄りの比較的大きなターミナル駅まで行けば何とかなると思ったけれどそれは無残にも砕かれた。駅のシャッターは目前で閉まり、利用客の怒号が飛び交い、それをしり目に私はまたオフィスビルまでとぼとぼと歩いて戻った。そのときの歩数を後から見たら20,000を超えていた。

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電波が混雑をきわめていて繋がったり繋がらなくなったりする中、学童保育や保育園から、状況伺いの連絡がたびたび入る。帰宅できない状況だと伝え、泊めてもらえないかと伝えるとそれは無理だと申し訳なさそうに言われて困った。そんなとき、偶然にも近所のママ友から「今どこにいる?子どもたちどうしてる?迎えにいくから連絡とって」とメッセージが入った。さすがにこれには涙があふれた。さっそく学童と保育園に連絡をとり、彼女にお願いすることができた。余震もさることながら、停電が続いていて信号は機能していない中、彼女は自家用車を運転して自分の子どもたち二人を連れて、我が子二人もピックアップをしてくれたのだ。しかも彼女の旦那様は消防士で、こんな時には当然ながら街の人々の安全を守るわけなので、ご自宅にはいない。不安な一晩を4人の子どもを守りきってくれたのだ。

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 余震が数多く起きる中、築50年以上の古い一軒家の学童保育にそのままいたら…と思うとぞっとする。子どもたちや私たち家族の今があるのは、彼女のおかげである。

一番必要な時にそばにいられなかった母親、という大きな大きな後悔。
予想を超える強くあたたかい手が差し伸べられたという大きな大きな感謝。何年たってもまず一番強く思い出されること。