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夫婦という関係性の中でバウンダリー(境界線)を考える

私は夫のことを「家族」という関係性よりも「夫婦」という関係性で捉えている。「夫婦」は私にとっては特別でキラキラした響きである。夫と妻という独立した二人が、横並びで立って手を繋いでいるような漢字の作りも好きだ。

「夫婦」の漢字のイメージはこんな感じ

「家族」は境界線が非常に曖昧なイメージがある。(まだ私にとって「家族=実家」という感覚が強いからだと思う。)関係性に甘んじて、相手を尊重する意識が欠けるような。プライバシーが守られなくなり、常に全て共有することを強いられるような。そんなマイナスの印象が強い。

夫との生活は、良い意味で明確に”他人同士”という境界線が引かれているように感じることが多い。この境界線のことを以下、バウンダリーと書く。

バウンダリーは英語で境界、限界、範囲を意味する言葉である。「バウンダリーを引く」とは、「相手の人生と自分の人生は異なるものだと理解し、身体的・感情的に適切な距離をとること」を言う。

バウンダリーがうまく引けないと、共依存関係になりやすい。「共依存関係」とは、「ペアの一方または両方が、自身の充足感を得る為に、もう一方に依存していること」を指す。多くの場合は、「自分の価値は他人に由来する」という考えをベースとし、自己犠牲的な行動が増え自立性を失う。

私も昔は恋愛でも友人関係でも仕事でも、共依存傾向が強かったと思う。おそらく、自分が母親にされていたことを投影していたのだろう。

夫と結婚する時も「妻としてどうして欲しいとか希望ある?」と事前に確認した。その質問に対して夫は少し不思議そうな表情を浮かべながら「自由に生きて欲しい」と言ってくれた。そんなこと人から言われたことがなかったので、少し突き放されたような、困惑した気持ちになったことを覚えている。でも今から思い返すと、そのセリフこそがバウンダリーだったのだと思う。

夫との生活は基本的にお互いのテリトリーに踏み込み合いすぎないようにしつつ、その上で相手に対する優しさや思いやりで成り立っている。携帯電話は勝手に触らない。自分がしたくないことは(例え相手のためになることであっても)無理してしない。相手が嫌がることはしない。相手に負担をかけたら、ごめんねとありがとうを伝える。してもらったことは、可能な範囲で相手に返す。

そのスタンスでいると、相手だけに一方的に何かをさせるという発想は浮かばない。普通に申し訳ないという気持ちが働くから。「夫」だから「妻」だからと役割をお互いに期待しあわず、任せあわず、察して動き合わず、フラットに共同生活を送っている感覚だ。(思えば恋人の延長戦のような感覚に近いかも。)

血の繋がりがある「家族」よりも、血の繋がりのない「夫婦」のほうが、私にとっては圧倒的に居心地がよく大切だ。知っていることもあれば、知らないこともある。境界線の内と外で築いていく不完全な関係性の中で、愛情を育んでいくことが面白さなのかなと思う。

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