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ジュニアスポーツのあり方

 昨年12月に友人の結婚式で帰郷した際、小学校・中学校の友人とお酒を飲みながら話す機会がありました。小・中・高と野球をやってきましたが、友人たちと話してるうちに自分はスポーツを通して貴重な経験をしていたんだと改めて実感し、スポーツのあり方について改めて考えさせられたので少しお話ししたいと思います。

 小学校3年から野球を始めた私は入部して1週間、ルールもよく分からないまま試合に出ました。理由は簡単で人数がギリギリだったためです。当時は6年生の試合に出て、全く手も足も出ない人数合わせ的な存在でした。

 そんな私も1年続けた頃から徐々に戦力になり始め,5年になる頃には1学年上の試合でピッチャーを任されるようになりました。1学年上のメンバーは小学校低学年からバリバリに鍛えられている選手が多く、少数ながらかなりの精鋭揃いでした。5年の夏には県大会優勝、九州大会準優勝と結果も残しました。そんなメンバーと一緒に野球ができて試合に出られる事は、私にとってとても楽しい時間であり、誇りでした。

 しかしそんな時間も終わりを迎えます。10月になると新チーム体制で自分たちの学年が最上級生になりました。自分たちの学年になると、上の学年でレギュラーとして出場していた私に対する周囲の期待はものすごく、常に張り詰めた気持ちでプレーしてミスをしないよう必死でした。その頃から周囲の期待と同調するように監督の指導も厳しさを増します。今では大問題ですが、当時は体罰が当たり前の時代だったので毎日が苦しかったのを今でも覚えています。

 そして新チームになって1ヶ月、リーグ戦が始まって毎試合ギリギリの気持ちで試合に臨み、毎試合怒られながらも最終的には準優勝という結果で大会を終えました。しかしそれを境に私はチームを辞めました。心がボロボロになっていたのです。

 当時を振り返りながら同じ野球チームだったメンバーは口を揃えて言います。「小学校が一番地獄だった」と。中学校から野球を始めたメンバーは「恐怖でチームに入ることを諦めた」と口を揃えて言います。今となっては笑い話ですが😂

当時の私の状況はチームの皆から見てもヤバかったらしいです😓
 メンバーの1人に「新チームになってから甲斐は誰よりも怒られてた。だから自分たちは監督から怒られる割合が減った。甲斐には申し訳ないけど。」と言われ思わず笑ってしまいました。

 また、他のメンバーからは「甲斐が辞めたその後はオレが代わりにメッチャ怒られる役割だった」と聞き、少し申し訳ない気持ちにもなりました😣

 現在ジュニアスポーツに関わる大人として、当時の監督の気持ちは少なからず理解できます。上の学年が結果を出した次のチームとは難しいものです。当時の状況から推測すると方法はどうあれ新チームの柱として、チームを引っ張る存在としてもう一段成長させたかったためなのかと今では考えます。

 しかしそれは組織の勝敗を優先するものであり、個人の成長を優先するものではありません。小学生のうちから結果や競技力を求める価値観が全て悪いとはいいませんが、指導者も選手自身も競技者としてのゴールをどこに設置するのかを深く考えて欲しいです。

 当たり前の事ですが選手がチームのために頑張ることは悪いことではありません。ですが頑張りすぎて選手生命に関わる怪我をしてしまったり、1人で責任を背負いすぎることは健全とはいえません。なぜならそれが元で競技を続けられなくなる場合もあるからです。

 答えが曖昧で難しいジュニアスポーツですが、指導者は目先の結果よりも子どもの将来を考えて接することが最も大切なことであると改めて考えさせられるきっかけとなった出来事でした。