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【連載小説】 彌終(いやはて)の胎児 8章〖57〗

       8章〖57〗

 すでにして東校舎は炎の海、階段の下方からは真っ赤な巨大な舌が風を切って猛り狂い、煙は濛々と立ち籠めている。
 そして、炎の中に一人の男の影が揺れた。ああ、フランケッシュタイン! 加代子が叫ぶのも無理はない。巨漢米蔵が、火達磨のていでぶらりと現われたのだ。分捕った石油で焼身自殺を計ったものに違いない。しかし、とうに死者である米蔵に死ぬことが可能なのか。そのように、じきに溶け落ちた仮面の下の米蔵の顔はいっそ青白く、形相すさまじく歪んではいても、決して熱さに耐えかねての断末魔ではなさそうであった。  
 米蔵は、救い求るよう両手を天に向けて捧げつつ、
「成仏でございます。アーメンでございます。南無阿弥陀仏でございます。神様仏様お助けを……」
 呪いの言葉おぞましく地に響き、天に轟き、火焔男はあの世への抜け道を求める迷霧の中の牛にも似て、のっしのっしと廊下を歩いてくる。

 二人は手を取り合い、西校舎に向けてひた走った。が、階段に辿り着く手前で、行く手は遮られた。そう。教頭、御息所嬢、そして木刀を手にしたヤスの、横一列に固まった後ろ姿がそこに立ち塞がったのだ。
 いや、もう一人。かの少年事務長が三人に対峙するよう、墨色に透き通った肌に血走った目を見開いて、丸めた新聞紙を構えて突っ立っている。
 教頭の背中は震え戦き、尋常ならざる狼狽の色が滲み出た。
            
 振り向けば、炎を撒き散らす火焔男が迫る。しかし、このまま前進すれば、ヤスの木刀が振り下ろされるは必定だろう。二人は壁際に身を潜め、祈る思いで小さなチャンスを待った。
 煙が枝を伸ばし、蔓(つる)を作って天井を這う。一呼吸、二呼吸。そして、教頭がようやく口を切った。
「きさま……まだ、くたばっていないのか……」
「残念だったな。ぼくの夢は大きな愛で膨らんでいるのさ。あんたの姉さんのしのぶちゃんに対する愛でね。そう簡単に虫に食い尽くされてたまるか」
 立っているのがやっとの、今にもぶっ倒れそうなけはいながら、少年事務長のふてぶてしい口振りであった。
「やれ。ヤス!」
 教頭がヤスの背を突く。ヤスは木刀を斜め上方に構えるや、少年事務長の脳天めがけて打ち下ろした。ガクッと片膝をつき、パックリと石榴のように割れた頭から血飛沫あげながらも、少年事務長は執念の笑顔ブキミに、しかと教頭を睨み上げる。
「おばけや、おばけや……」
 てっきり自信喪失。混乱を呈するヤスをよそに、少年事務長は辛うじて立ち上がると、
「地獄に墜ちるんだな、教頭さん。あんたの『彌終商事』とやらも、所詮、陽の目をみることはない」
「ど、どういう……」
「よっく聞け。娑婆のお前の『弟』、菊地産業のご令息菊地さとしは、『レインボー学園』をやめた同級生のぼくの『弟』を落ち零れといって苛め抜き、報い覿面、金属バットで殴り殺されたんだ。もう一週間も前の話さ。どうやら『弟』さんとの涙の再会は、夢の夢の夢物語のようだな」
「うそだ、嘘だ、うそだ」
 ステッキを落とし、甲高い声で繰り返す教頭に、
「嘘だと思うなら読んでみろ。ちゃんと赤鉛筆で囲っておいてやった」
 少年事務長はそう言うと、手にしていた新聞を投げつけた。教頭はすぐに拾って目を通すと、突然頭を抱え、ヒステリーを起こした駄々っ子にも似て、
「いやだあ――!」
 叫びは尾を引いて、そのまま絶望の淵に吸い込まれてゆくようであった。
「なあ、社長……」
「しっかりなさって、社長さん」
 ヤスと御息所嬢が狼狽えながら教頭の上着を引っ張るのに、
「いやだあ――!」
 教頭はもう一度叫ぶと、苛められた弱虫さながら、身も世もなく、手放しのていで泣き始める。

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