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【連載小説】 彌終(いやはて)の胎児 9章〖60〗

        9章〖60〗

 とたんに、光の針が眼球を射る。光の縞目に、羽化した『桃源虫』が……
「雪よ……!」
 そう叫んで、加代子が不意に足を止めた。ブレーキを掛けそこね、啓吉がつい手を引く反動に、加代子が勢いよく抱きついてくる。二人はその場に横転しそうになり、かろうじて体勢を立て直した。
 改めて見回すところ、あたりは光あふれる世界。雪。街は、ほんのり銀世界であった。振り返ると、炎上していたはずの『彌終学園』は……いや、そこには単なる廃校がひっそりと、何事もなかったけしきで、幽霊の皮膚さながらに、雪の中に……

 墓地とシャッターの下りた小工場に挟まれた狭い道。人通りはない。その先には大通りがあって、左右に走り去ってゆく車が見える。腕時計を覗き込むと七時。朝の七時であった。早朝の大都会。二人はしばし呆然と佇んだ。冷たい風が吹き、加代子が首をすくめる。ブラウス一枚の、寒々としたよそおいながら、確かに加代子はそこにいる。啓吉はマウンテンパーカーを脱ぎ、加代子の肩に掛けた。加代子の編んでくれたセーターのお陰で、啓吉のからだはあたたかい。
「夢……?」
 きょとんと呟く加代子の顔がやけに若返って、いっそ知り合う前の、ずっと昔の加代子と改めて出会っているようであった。
「きっと、まだ夢なのさ」
「そうね、『メゾンF』の『妹』のところに行って、そうよ、殴り込み! そして、今度は逆に『妹』を追い出してやる。その殴り込みが終るまで、悪夢は終らないわ。わたしが二人いるなんて!」
 加代子は懐剣に手を置く武家娘のように顔を凛と引き締めると、先に立って雪の道を大股に歩き出した。

 自分が愛している限り、この加代子は「名前」を失っていないはずだ。透明人間でも幽霊でもないはずだ。眦(まなじり)決した加代子を横目に、啓吉は改めて確信した。
 そのように、最寄りのS駅で切符を買い改札を抜けた時、加代子が誤って落とした切符を見ず知らずの学生風の男が拾ってくれたのだ。紛れもない実在。ついそこのベンチのように、売店の雑誌のように、世間に溢れ返る有象無象とひとしなみに誰にでも加代子は見えるのだ。そして、生きて呼吸しているのだ。その白い吐息。加代子もさすがに安堵したのだろう、電車を待ちながら、ようやく記憶に焼き付く加代子らしい笑顔が戻ってきた。

 じきに電車が入ってくる。二人の顔が扉のガラスに映る。啓吉は慌てて手櫛を使った。不精ヒゲむさく、思えばこの一週間、風呂はおろか下着も靴下も取り替えてはいないのだ。てっきり無宿のふぜいであった。しかし、家に戻るのは後回し。暗黙の了解のまま、電車を一つ乗り換え、すなわちとりあえずの目的地は『メゾンF』であった。加代子はその間、殴り込みの決意表明いさましく、
「三十分もあれば……ううん、十分でケリをつけるわよ。あの憎らしい『妹』を追い出してやるわ。打算的で、愛のなんたるかも知らない、最低の人。『姉』としてのメンツにかけたって……」
 そんな意気込みとは裏腹に、啓吉は時に不安にかられた。そう。加代子はしきりと自らを奮い立たせようと努めながらも、ふうっと睡魔に襲われて気が遠くなってゆくように、不意に目をとろんとさせ、頭を落としそうになるのだ。その度に加代子の白い顔が、死んだ夢さながらに透き通ってゆく気がしてならない。もちろん、啓吉は加代子の肩を抱いて激励し、加代子にして必死になって気力を取り戻そうとする。まさしく、あの日のように……

 一年前の十一月。兄の命日のことである。母が風邪で寝込み、啓吉一人の墓参になった。啓吉は不思議と墓地が好きで、その日も香華を供えた後、ついくわえ煙草でぶらついたものの、念頭に兄はなく、夕暮前のどんよりとした曇り空の下、広い境内には樹木生い茂って人影もなく、いっそとりとめのない空想には打ってつけであった。
 カラスの羽撃きについ目を流したさき、とある墓の前で小さくしゃがみこんで合掌瞑目の、何やら呟いている娘の姿を認めたはまったく無作為の偶然であった。ひっそりと、娘は泣いていた。そう。母親の三回忌を終えた翌月の命日の墓参に来た加代子であった。
 女優小倉加代子であることを、啓吉は直覚した。数日前、母の見ていた再放送の時代劇に、ちょうど加代子が出演していたのだ。以前にも見、好みのタイプだと銘記していただけに、名前を知るべく母に付き合ってテレビの前に座ったものである。加代子の役は長屋住まいの、労咳を病む父親の世話を焼くけなげな娘という設定であった。役名は確か、「おのぶ」。そのおのぶが、たったひとりの肉親である父親が殺されて嘆くシーンがあった。きものと鬘を除けば、あの日の加代子はその再現といえた。
 次のシーンでは、一人の遊び人が現われ、おのぶを慰めたはず。ただし、その誠実を装った男こそ実は父殺しの下手人にして、詳しい筋立ては忘れたが、契りを結んだ直後、おのぶも当の男の手に掛かったはず。
 空想劇場の中、啓吉はふらりと、そんなドラマの別バージョンの世界に入り込んだ気がしたのだ。もちろん、自分に振り当てた役は、決しておのぶを裏切ることのない恋人役として。
 そう。後で思ったものである。あれは、やはり運命的出会いであったと。もし、そうでないなら、一面識もない女優に声を掛ける真似など断じてしなかっただろう。そのように、啓吉は運命のドラマに入り込んだまま、加代子に近づき、思わず声を掛けていたのだ。
 おのぶちゃん!

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