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【連載小説】 彌終(いやはて)の胎児 9章〖61〗

       9章〖61〗

 十階建ての『メゾンF』の前。五〇七号室に、もう一人の加代子がいるのだ。一緒にマンションの入ろうとする啓吉を制して、加代子が言うことに、
「啓吉さんはここで待っていて。これはわたしと『妹』の問題。直談判よ。大丈夫、わたしを信用して。元は一人なのよ。底の底までお見通し。グサリと急所を突いてやるわ」
 言い終わって静かに目を閉じ、顔を上向けるのに、啓吉はそっと唇を合わせた。加代子は力強いVサインを作ると、髪を靡かせ、甲斐甲斐しくマンションの入り口に消えた。

 目を瞑ると、気負い立つ加代子の、エレベーターを降りて廊下を進む勇姿が見えるようであった。チャイムの音。しばし間を置いて、髪の短いもう一人の加代子が顔を出す。青ざめているのは、さだめしドアスコープで正体を確認したからに違いない。入っていいわね。加代子は決然と口を切るだろう。もう一人の加代子にして、渋々ながらも予想外の珍客を招き入れるはず。扉の閉まる反響音。その先を考えるのが怖いのか、不意に映像が消えた。

 雪が積もり始めた。厳冬の予報が出ているとはいえ、十二月としては珍しい。てっきり、討ち入りを睨んでの天の演出だろう。
 人通りは少ない。マンションのまわりには古い人家もあって、真向いには看護婦寮、左手筋向かいの角にはコンビニ、右手の方は通りが右に急カーブしていて見渡せないが、ギリギリ見える黒っぽいビルに大きな看板が掲げられてある。

 『レインボー学園』

 不吉なものを目にした気がし、啓吉は慌てて視線を転じた。
 転じた先のマンションの駐車場に、一人の中年男が、蓑虫さながらの厚着をした老婆を伴って現われるや、労わるように車に乗せ、そのまま走り去った。排ガスのニオイがしばし漂い……突如として現実の重みが啓吉の肩にのしかかってくるようであった。

 そう。今しも、加代子が「愛」を旗印に凱歌をあげながら戻り、しがみついてきたとしよう。思考の空白が幾齣か続く……
 先程車に乗せられた老婆は、もしや風邪でもひいて医者に行くところではなかったのか。思うに、一週間、置き手紙だけで家をあけ、その間母に大事はなかっただろうか。急病。あるいは事故。
 ふっと、兄の葬儀が連想される。黒リボンの兄の遺影に代わって、母の写真が挿入される。煩わしい儀式が始まるのだ。まめまめしく立ち働く喪服姿の加代子の姿が見える。一度もお目にかからないうちに亡くなられるなんて。加代子がしんみり呟いて、母の遺影を仰ぐ。むしろ、これでよかったんだ。心ならずも安堵している自分が、そんな加代子に寄り添っている。線香のニオイに祝福された、ささやかな新婚生活。なんとかなるさ。薄暗い部屋の、蝋燭ゆらめく遺骨の前で、刹那の快楽を共有する根なし草の影二つ……

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