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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】【恋愛小説】 紫水晶(アメシスト) 7章・8章

      

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 奴は鈍感で、気がついたのは後になってのことだろうが、要するにりん子の方も奴に気があったということだろう。そんなコトとは露知らず、奴は半年間で確実に何キロか体重を減らしたのだから始末におえない。もちろん、かかる苦行あればこそ、りん子と知り合えた当日が人生最高の一頁であったことに間違いはない。

 おっと、いつのまにか乗換駅だ。急ぎ足にエスカレーターを駆け上がり、通路を渡って再びエスカレーターを駆け上がれば、折よく電車が入ってくる。
 やはり、車内はガラガラだ。普段と違って座席中央に大きく足を組んで腰を下ろし、つい習慣のままに左腕に目を落とす。やれやれ、腕時計を忘れてきたらしい。なに、いまさら時間なんぞ気にしても始まるまい。

 とにもかくにも、奴はりん子に本気で惚れ込んだらしい。
 俺はといえば、間違ってもおんなには惚れない主義だ。男とおんなの愛なんぞ、いくらキレイ事に潤色したところで、所詮、盲目的憧憬から利己的独占欲をへて憎悪にいたるまでの、判り切った道筋にすぎないものだ。迂闊に溺れれば、教条的宗教家と偏執狂的犯罪者との混血になったような地獄が待ち構えているやも知れないのだ。すでに古典となったかかる文学的苦痛を背負いこまないためにも、現代人たるもの直観的におんなを嗅ぎ分ける必要がある。
 まず、どこに出しても通用する絶世の美女というのは、案外危険ではない。この手のおんなは、自信のある男なら落とすまでが眼目であって心底惚れることもなく、又相手にしても女王様気取りの愚かな自惚れをもって玉の輿を夢見ているのだから、孕ませない限り切れるのはいっそ容易い。
 その点、りん子のようなタイプは、最もキケンなおんなの典型だろう。注目し始めないうちは叢(くさむら)に紛れて目立つことはないが、いったん注視したが最後、あたかも底無し沼に引きずり込まれるように魅せられてゆく存在だ。こういった手合いとは、いい加減な気持ちで遊んでやろうというわけにはゆかない。一度でもからだの関係を持つと、鳥もちのようにへばりつかれてなかなか別れにくい。そう。言ってみればこころのどこかで、素直に結婚を意識しないわけにはゆかない。だから、スマートに遊ぼうというコンタンならば、ゆめ近づかないに限る。
 しかし、奴のようにその手のおんなに確実に惚れてしまったからには、最早手遅れというものだ。仮に、奴がりん子と結婚したところで、浮き浮きしていられるのは初めの半年か一年だろうし、後には夢の屍骸を引きずり続けるような、ねっとりと重い、ひたすらに重い数十年が待ち構えているはずである。愛というのは決して溺れるものではなく、性欲と、一つの契約であるところの結婚の両方に使える、建前上のパスポートに過ぎないのだ。

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 重苦しいモノクロームだったほくの人生が、りん子との交際が始まったと同時に、きらびやかな総天然色に切り替わった。スモッグで濁った空にも、薄汚れた町工場のモルタルの壁にも、鼻をつくディーゼルエンジンの排気ガスの中にさえ、なんだかきらめきの粒子たちが小躍りしているようにぼくには感じられるのだ。

 初めてのデートの時、ぼくたちはどちらともなく動物園に立ち寄った。きっと、人を好きになり愛し続けるためには、まず第一に無垢な感動や無邪気な好奇心が何よりの潤滑油であると、ぼくもりん子も無意識の裡に気がついたのだろう。
 動物は人間のように笑ったり泣いたりはしない。だからこそ正直なんだとぼくは思う。人間の笑いや涙なんて、その大半が偽りの社交に過ぎないような気がしてならないのだ。その点動物たちは、そんな賢しらとは無縁なのさ。檻の中で可哀想なんて言う人もいるけれど、彼らはもっと苛酷な檻、すなわち生と死という格子の中に生まれたことを心底知っているに違いない。決して偽りの通用しない摂理の檻にあって、動物たちは笑ったり泣いたりの暇(いとま)がない位賢明に生きて、愛して、そして死んでゆくのかも……そんな動物たちのちょっとした仕種の中に、まだ口に出せないぼく達の未来のこころの動きが映し出されているように見えるのだ。
 そんなわけで、あんまりひと気のない檻の前では、二人きりでいつまでも立ち止まってしまう。ぼくの方が、そろそろ行こうかと言うまで、りん子ばじっと動かない。何も言わなくても、ぼく達だけのために特別用意された大気がゆっくりとぼく達をくるみ、こころの糸を――きっと細結びに――結びつけているように感じられるのだ。

 二箇月が過ぎる頃から、ぼくたちの仲に気づきでもしたのか、「もう寝たのか」とつつく奴がいる。ぼくは未だりん子とはキスはおろか、手を握ったことすらない。一緒にいられるだけで、十分に幸せなのだ。それが、真に人を好きになったということだろう。そんなことは当たり前じゃないかと思うのだけれど、なんだか今のぼくの目には、世間の人間がみんな何かに追い立てられているよう慌ただしく見える。平均寿命は確実にのびているというのに、何でも彼でもお手軽に済まし、早く死にたがっているようにぼくには感じられるのだ。

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