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【短編小説】僕の瞳の中で君は永遠に生きる

       僕の瞳の中で君は永遠(とわ)に生きる

 あらすじ
 鈍くさい仁吉君が、初めて恋をした絵里子さんの肖像画を以て想いを表そうと決意……しかし、彼女はある日、仁吉から離れてゆく。そう。タレントへの道が開けたらしいのだ。美しかった一重まぶたを、二重に整形して。それでも、仁吉は一重まぶたの絵里子さんの肖像を描き続ける。その瞳に自らの自画像を描き加えて……。
 そんなある日、絵里子さんが、若手政治家のマンションから転落死……
 時同じくして、仁吉の描いた絵が銀賞を受賞、当の会場で会った絵里子さんの母親から渡された彼女の日記には……  

 

  僕の瞳の中で君は永遠(とわ)に生きる


  
「悪いけど、貴方と知り合いだなんて誤解されたら……私、首くくって死ななくちゃならないから」

 ショックなんてもんじゃない。

 どこぞアイドルみたいな服装に、色の濃いサングラス姿ではあったが、仁吉は一目で、加納絵里子さんだと気が付いた。
 場所は、六本木の交差点。オシャレとは無縁の仁吉には場違いとはいえ、たまたま友人に誘われ、某新進画家の個展を見ての帰りであった。
 当の友人は、大学卒業後はファッション業界に進みたいと漏らしていた奴だけあって、オシャレの街にしっくり溶け込んでいて、……どこかで飲もうと誘われたのだが、どうも居心地が悪くつい断ってしまったのだ。

 仁吉自身、子供の頃から絵が好きで美大に進みたいという希望もあったれけど、母子家庭の、あまり裕福ともいえない経済事情もあって、大学は在り来たりの商学部ながら、独学で絵は描き続け、高校時代から落選続きとはいえ、具象画に於てはかなり権威もある「S会」に応募を続けていたのである。
 そして、ここ二年間、賢明に描き続けていたのが、絵里子さんをモデルにした絵だったのだ。

           ※

 出会いは三年前だ。仁吉が大学一年、絵里子さんは当時まだ高校二年生であった。

 スケッチを兼ねた散歩帰りにコンビニに立ち寄ったところ、出し抜け、かなり大きな地震に見舞われ……棚の商品も落ちてくるのドサクサ、制服姿の絵里子さんについしがみつかれたのが出会いであった。
 たぶんビックリして、見境もなく手近の救援を期待したのだろう。いっそ、単なる手摺りの見立てだったのかも知れないが……
「あっ……すみません」
 絵里子さんはすぐに謝罪して身を引いたけれど、その時たまたま滑り落ちてしまった仁吉のバッグの中から零れたエスキースを拾ってくれたのが馴れ初めであった。

 仁吉の第一印象の絵里子さんは、ちょっと色黒だったけれど、一重の涼しい……そう、昨今巷に溢れる整形みたいな不自然なパッチリではない……どこか日本古来の伝統を思わせる、深い味わいを秘めた……そんな目に、つい引き込まれたものだ。
 いや、目つきばかりではない。慈愛に満ちたマリア様みたいな……控え目に膨らみのある唇のニュアンスなど……一瞬ラファエロを連想したほどだ。
 運命の出会い? ……まさか。

 もちろん、自分でも認めているとおり、「骨吉」というセンスゼロの、小学生時代のあだ名そのままに痩せた貧相な自分が、かかる美少女と釣りあいが取れるとも仁吉は考えたはずはなく……、軽く会釈して、渡されたエスキースを受け取るとそのまま引き下がるつもりであった。

「よかったら……今の絵……もう一度、見せていただけます?」

 うそだろ? うそに決ってる。でも、絵里子さんは続けてこう言ってくれたのだ。

「ほんと……お願い……」

 夢なら醒めるな! 仁吉は、何度繰り返したことだろう。

 それでも、気がつくと二人はつい近くの公園のベンチで、夏の終わりの、旅立ちを思わせるうろこ雲を見上げながら、コンビニのコーヒーを啜りつつ……そうさ、人が見たらてっきりデートの真似事をしていたのだ。

 絵里子さんは、本当に真面目な顔で、仁吉の描いたエスキースを見て感心してくれるのだ。こっちが、照れ臭くなってしまうほどに……
 それでも、仁吉はやがて合点がいった。
 そう。好きなラフェエロを初め、フェルメール、それに小林古径などを参考に……自分なりの理想の女性像を描き続けてきたのだが……そのモンタージュとも言える顔の造りが、確かに、絵里子さんにちょっと似ていたのだ!

 無口の仁吉に反し、絵里子さんはまるで同じ高校の、心を許した合った友人相手みたいに、自分について語ってくれるのだ。恐れ多くなってしまう仁吉を、あたかも気弱な後輩と見立てたように……
 スレンダーな体驅そのままに、高校ではバスケ部とチアリーダー部の掛け持ちだそうで、ついでにアートの世界にも興味を持っている口ぶりであった。 
 なんでも絵里子さんは目下、仁吉と同じく母親と二人暮らしだという。小学生の時に死んだ父親は、仁吉でも名前を知っている芸能プロダクションのプロデューサーだったそうで、母親にして結局は人気こそ出なかったが、某アイドルグループの一人だったという。
 多少のコネもあるので、一時はタレントの道を勧められたというが……私は不器用だし、歌も下手だから……絵里子さんは屈託なく、笑いながら話してくれる。
 そう。絵里子さんは表舞台というよりも、裏の……まだハッキリとは決めていないものの、デザイナーみたいな仕事に憧れているフシが窺われた。

 話を聞きながら……仁吉は不安になる。

 当然じゃないか。典型的な「モブ」の、持てるタイプでは絶対にない。絵里子さんに何かプラスになる要素なんか、毫末(ごうまつ)もありはしない。なのに……なぜ、偶然の地震で知り合ったというだけで……垢抜けない、風采の上がらない、チビの男とこんなに親しく話してくれるのだろうか?

 持てない男子というものは、なかなか捻くれていて……いつだって、ちょっとでも女子から好意を寄せられると……「あり得ない」「何か裏があるぞ」「バカにされているだけ」……そんな考えを持ってしまうものだ。

 それでも仁吉は、この……たぶんこれまでの人生で、これほどの幸せを感じたこともなく……無謀と知りつつ、この幸せを少しでも長く持続したいと考えてしまったのだ。

 捻り出した結論はこうだ。

 芸能関係と、それなりの繋がりのある絵里子さんのことだ。周りに群がるキザで、女たらしのやつらが絵里子さんをほおっておく道理もない。
 でも絵里子さんは……きっと、キット、生まれもっての潔癖が作用して……そんな軽薄な連中には辟易なのだろう。もしかしたら……もしかしたら……この僕に、真逆の誠実さを垣間見てくれたのだろうか……

 我ながら自己弁護の、悲しい結論ではあったけれど……仁吉はそんな考えを自らに取り入れてしまったのだ。

 そして、もう一つ。何も誇れないとはいえ……絵画に於ての自信!
 そう。いかに、鈍くさい、持てない男子とはいえ……それだけでは悲しくて、生きられないじゃないか。
 何かを……そうなのさ、自分に恋人などは出来ないにしても……本当に美しい人をキャンバスに表現したい、という矜持だけは持ち続けてきたつもりであった。
 絵の話になると、仁吉も俄然熱くなる。いつにもなく饒舌になって、言わずもがなの、児童の部ながら金賞を授与された自慢話にまで及んでしまったのだか……会話が途切れた時、なんともごく自然な流れで、電話番号の交換もしていたのだ。

 天の演出みたいに、突如降り出した雨から逃げるよう、二人キャッキャッと奇声を発しながら駅まで走っている時の幸福感は……心底、生きている喜びそのものであった。
                        
          ※

 仁吉と絵里子さんとの交際が始まった。

 絵里子さんは、優柔な仁吉の心を見抜いたみたいに、他愛ない内容ながら始終メールをくれ、週末には直接電話をしてもくれるのだ。
 仁君、わたし今、すっごく退屈なの……みたいな調子で。

 仁吉にして、三度目のデート……ちょうど二人の家の真ん中に位置する自由が丘のカフェで、イチゴケーキを食べ終わった直後に、思い切って切り出してみたのだ。もとより、絡み合った逡巡と葛藤の末に……

 「君の絵が描きたい……ぜひ、モデルになって欲しい」

 やはり、夢の中としか思えない! なんと絵里子さんは、別に躊躇うこともなく、これを引き受けてくれたのだ。

          ※

 一年ほどは、瞬くうちに過ぎた。その間、絵里子さんはカフェで、さすがタレントの血筋なのか堂々たるモデルぶりだったし、仁吉にしてここまで集中したこともないと思える位に、スケッチを重ねたものだ。いずれは、自宅のアトリエに招き、キャンバスに筆を下ろすことまで夢想して……
 確かに、絵里子さんの美少女振りは尋常ではなく、たむろしている男子学生なんかに、どこか羨望の視線を向けられる時もあって、生まれて初めての優越感を覚えたこともあった。
 一度など、絵里子さんがスケッチブックをぶんどって、仁吉の顔を描きたいとも言ってくれたのだ。描かれたスケッチは……ほとんど漫画かアニメに似ていたけれど、かなり器用な手筋で、主役を張れそうなまでの美少年に描いてくれたのだ!
 仁吉にして、ほんのわずかながら自惚れたものだ。もしかしたら……絵里子さんの目には、こんな風に映っているのだろうか……

 二人は時には、カフェを離れてデートをしたこともあった。仁吉も精いっぱいファッションに気を遣い、髪もセンター分けからちょっとラフなマッシュに整え、絵里子さんに合わせてみる。それでも、オシャレに関しては絵里子さんは上級者で、チクリと野暮の指摘にも及んだけれど、仁吉にして絵画論を以てこれに応戦する。楽しい舌戦の後、絵里子さんは仲直りとばかり、自分から腕を組んでくる。そんな時は、照れ隠しに、仁吉はスマホをもって、いろんなポーズや、いろんな表情の絵里子さんに向けてシャッターを切る。
 知らず、仁吉は絵里子さんを直接見ずして、その笑顔も澄ました顔も、自在に描けるまでになっていた。
    
         ※

 そんなある日、仁吉が好きなロックの話をしている間隙を縫って、絵里子さんが言うことに、
「実は、私……中島みゆきが好きなの」
「まじ? ずいぶんレトロな気がするけど」
「てゆーか……お母さんが好きで、ちっちゃい時から子守歌みたいに聞かされて……」
「そうなんだ。僕なんか……そうだな、『糸』だっけ……あれくらいしか知らないな」
「うん、わたしも『糸』は好きよ。歌詞の中に『なぜ めぐり逢うのかを 私たちはなにも知らない』ってあるでしょ、なんか意味深よね……」
「つか……僕達は地震で巡り合ったってわけか。そう言えば、『邂逅』って書いて『めぐり逢い』って読ませる古い映画があったらしくて……あの時、その言葉が浮かんでね……」
「かいこう?」
「まあ、古語みたいなもんで、『わくらば』とも読むらしいけど、なんでも……仏教用語では、己の人生を左右するような決定的なめぐり逢い……って意味らしいんだ」
「わっ……難しくなってきた」
「国文学の、助教授の受け売りだけどね……。で、何が好きなの? 中島みゆきの曲で……」
「そうね、空と君との間って曲……私、一番好きなの」
「ごめん……なんか、聞いたことはあるんだけど……」

 絵里子さんはさっそく自分のスマホを取り上げると、ヘッドホンを差し出す。

 はっきり言って、仁吉の好みではなかったけれど、
「君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる……」
 という歌詞だけは、妙に心に響いたものだ。
 それでも、絵里子さんは当の曲について、解説することに……「僕」というのは実は飼っている犬であり、その眼差しが歌詞になっているという。
「……改めて聞いてみるよ……」
「ところで……ねえ、仁君……」
「何?」
「ううん……いいの……」

 絵里子さんはくったくなく笑ってくれたし、まさかそれが、本当の絵里子さんを見た最後になるとは、仁吉自身考えてもいなかった。
                 
           ※

 絵里子さんからのメールも電話も、パッタリと途絶えたのだ。
 当初は、受験勉強に忙しいのだろうと思っていたのだけれど……年も明け、一月、二月と何の音沙汰もないままに時が流れる……
 所詮、夢だったのだろう。仁吉はその間しいて自分からはメールを送ることも控え、ぽっかり空ろを開いた心を満たすつもりで、ひたすらキャンバスに絵里子さんの絵を描き続けた。

          ※

 そして、その叉半年後、……当の絵里子さんが、完全に自分とは違う世界に遠ざかってしまったことを知った。
 そう。夏の衆議院選挙で、なんとあの絵里子さんが、売り出し中の公儀党の三世議員、剣持よしおの選挙カーに乗っているのをテレビで見てしまったのだ。
 思えば、かって絵里子さんから聞いたことに、父親が所属していた芸能プロが剣持よしおの後援をしているとのことで、母親が以前の選挙でウグイス嬢をやったことがあったらしい。
 たぶん、そんなコネクションなのだろう……選挙カーの上から手を振る絵里子さんは、テニスウェアみたいな服装で、にこやかに愛想を振りまいているのだ。
 すぐ横の、公儀党の貴公子とも言われる剣持よしおとは、悲しくなるくらいバランスが取れていて、ほとんど「愛人」という印象さえ……一瞬とはいえ仁吉は抱いてしまったのだ。

 悔しかった。悲しかった。遣り場のない、憤りが突き上げる。

 あの、自由が丘のカフェで語らっていた頃の……あの、あの絵里子さんは……どこに行ってしまったのだろう。

 仁吉は飲んだ。飲めない酒を、これでもかと飲み続け……そして、自らに禁じていた電話を、その日の夜、絵里子さんに掛けてしまったのだ。
 自分が惨めなのも、愚かなのも知りつつ……

 「お掛けになった電話番号は、現在使われておりません」

 その数カ月後のことだ。仁吉が六本木の交差点で、もう一人の絵里子さんを見かけたのは……

「悪いけど、貴方と知り合いだなんて誤解されたら……私、首くくって死ななくちゃならないから」
    
        ※

 翌々年、仁吉は大学を卒業こそしたが、お袋の嫌みを無視して、就職もせずアルバイトをしながらの制作に打ち込んだ。

 確かに、夢は終わったけれど……もう一つの夢を捨てる気にはなれなかったのだ。世の中に一人くらい、こんなバカな画家がいてもいいだろう。そう。仁吉は、ひたすら……絵里子さんの肖像だけを描き続けたのだ。

 まるで、そんな仁吉をからかうかのように……その年の夏、絵里子さんは、テレビの画面の中、五人組のアイドルとしてデビューしたのだ。
 でも、それは仁吉の信ずる絵里子さんではなかった。掛け替えのないほど美しかった、あの涼しげな一重の目が……たぶん美意識のカケラだにない悪魔の整形外科医によって切り裂かれ、無表情な、ただ見開かれただけの二重まぶたに歪められていたのだ!

 たぶん、あの六本木の交差点で見た絵里子さんの濃いサングラス……あの日、絵里子さんは……たぶん、いや、きっと……悪魔のメスに身を委ねたのだろう……

 テレビの映像を仁吉は、どこか冷笑しながら見ている自分に気がついた。

 悲しいくらい短いスカート、強調された谷間を覗かせた乳房……バックコーラスながらも、腰を振りながらの、舌足らずの媚びへつらうような歌声……
 あの絵里子さんは、死んでしまったのだろうか? そのように、「エリリン」なるアニメみたいな諡(おくりな)。

        ※

 絵里子さん……いや、エリリンを含めた五人組は、その後たいしたヒット曲にも恵まれず、一年後にはテレビの世界からも消えていった。
 洩れ聴いた噂では、それぞれ独立してのタレント活動を始めたらしい。実際、センターに立っていた女の子を女優として、ミステリー系のドラマのちょい役で見かけたこともあったが、エリリンをその後テレビで見ることもなく……

 それから二年が過ぎたが、仁吉はひたすらキャンバスに向かっていた。相変わらず落選続きながら……それでも、ひたすら夢の彼方に遠ざかってしまった絵里子さんを描き続けたのだ。
 今の頑張りをもし受験勉強に振り当てていたのなら、東大に受かっていたかも……そんなお袋の嫌みも、いっそ声援のようであった。

 夢の鉱脈を、爪が裂けるまでに掻きむしり、掘り進み、まさぐり続け……その時、その時の絵里子さんのスケッチや写真を手ズルに、あたかも時をらせん状に遡るに似て、知るはずも無い子供時代へと、仁吉を誘(いざな)うかのようであった。時を隔て、所を隔てても呼び合う無垢の魂。降りてこいミューズ! 僕に力を貸してくれ! 絵の具の層の下に、血が流れ、時が流れ、命が鼓動を刻み続けるまでに……
 おお、我が絵筆よ、今こそ魔法の杖となれ。撫で切るパレットナイフよ、聖なる剣となれ……

 そして、今度こそと気合いを入れて描き上げたF15号大の絵里子さんの肖像の瞳に、ちょっとした細工を施してみたのだ。
 そう。瞳の中に……こっそりと、自分の自画像を描き加えてみたのだ。実際のところ、自由が丘のカフェで語らっていた時、絵里子さんの瞳に自分の顔が映っているのを見たことがあって、ただならぬ感動を覚えたことがあったのだ。
 絵を描き進めながら、仁吉はあの夢の日々に舞い戻ったみたいな幸せに襲われ、加筆しながらも、キャンバスの絵里子さんに話しかけてもいたのだ。

 そのように、今回の肖像画は、我ながら素晴らしい出来栄えと信じさせてもくれる。いっさいの衒(てら)いを排除し、バックも闇に沈め、信じ得る限りの、美しかった頃の一重まぶたの絵里子さんが、そこに命を持った手応えであった。

 仁吉がその絵を「S会」に搬入した直後のこと……事件は起こった!

           ※                   
  
 剣持よしお衆議院議員が、プライベートとして使っているというマンションの八階から……一人の女性が転落して、即死……、かってのアイドル五人組の一人……エリリンこと加納絵里子さんだったのだ!

 悪意に歪められた週刊誌の記事。やはり、剣持よしおの愛人だったこと。それでも、一つの憶測として、エリリンはなんらかの事情……芸能の世界で生きていくために……を理由にマンションに呼び出され……愛人の条件を蹴っての揉みあいの結果として、ベランダから落下したのではないか……
 もちろん、その記事は虚偽として訴えられ、剣持よしおは涙ながらに弁明の記者会見を開く。
 知り合いのお嬢さんがタレントになりたいというので、軽い気持ちで芸能プロとの仲介をしたこと。担当のプロデューサーが、今流行りの二重瞼にしたいというので、その資金を提供したこと。マンションの部屋に赴いたについては、エリリンのプライバシー……と言葉を濁しつつも……暗に、絵里子さんを悪女と断ずるかのようであった。

 ネットの情報は、剣持の空涙を裏打ちするみたいな記事で溢れ返った。剣持の所属する「公儀党」の、権力という暴力そのままに……エリリンは、単なる売名の徒であり、淫売の魔女であったと……

 仁吉は悪意の憶測を否定しながらも、拭い切れない妄想に悩まされた。そう。あの絵里子さんが……剣持よしおと、裸で抱きあっている姿であった。拭っても、拭っても……どんなに拭っても、卑猥の妄想は黒雲さながらに靉靆(あいたい)としてわき起こり、仁吉から睡眠を奪う。

 眠れぬ闇の中……仁吉は、剣持よしおに対する殺意まで覚えてしまったのだ。
 絵里子さんの仇(かたき)をうってやる! 
 耳を覆ったヘッドホンからは、あの絵里子さんの好きだと言った「空と君の間……」が繰り返される。

 ♬君が笑ってくれるなら 僕は悪にでもなる……

 そうさ。僕は犬でいい。絵里子さんの飼い犬でいい。絵里子さんが笑ってくれるなら……僕は悪にも、狂犬にでもなってやる!

 なんだか、自分がナイフを手に、本当に剣持よしおを殺害するのではないかという強迫観念に襲われた直後……わずかに、仁吉に救いの手が差し伸べられたのだ。
 そう。出品した絵里子さんの肖像画が、なんと入選したばかりか、「銀賞」という望外の結果をもたらしてくれたのだ。
               
            ※

 さすがに、上野の美術館に自分の絵が飾られている様は、自信と感動のないまぜになった感情をもって仁吉の魂を揺すぶった。
 それでも、つい零れてくる涙は押さえようがないのだ。喜びの涙ではない。この瞬間を、絵里子さんと共にできなかったことへの悔恨であった。

 その時だ。背後に声が上がって、

「これが……これが、本当の絵里子だわ!」
 続いて、
「あの……失礼ですが、井上仁吉さんでしょぅか?」
 つい振り向くところに、一人の中年の女性が立った。どこか窶(やつ)れた印象ながら……仁吉が、もしやと思う間もなく、
「おめでとうございます。あの、私……加納絵里子の母なんですけど……」
「……!」
「どうしても、井上さんにお話ししたいことがあって……ここに来ればお会いできるかと……」

 誘われるままに、仁吉は絵里子さんのお母さんと、近くのスタバの一画に陣取った。

 しばし、仁吉にして何を話せばいいのか沈黙を決め込んでいると、
「あの……絵里子を恨まないで下さいね……」
「そんな……恨むなんて……」
「実は……これ、絵里子の残した日記なんですけど……」
 バックから取り出した大学ノートを差し出すのに、
「日記……?」
「読んで頂けたら……少しは、絵里子の気持ちが……」

 恐る恐るそのノートを開いてみれば……なんと、劈頭、それは仁吉とのあのコンビニでの出合いから始まっているのだ。
 あの日の絵里子さんが、戻ってきてくれたみたいに……

 もとより期待はしていなかったが、「好き」とか「愛」なんていう表現はなかったけれど……「素晴らしいお友達と知り合えた」という文言に出くわした時には、仁吉は真から涙を押さえることが出来なかった。
 ページを繰るたびに、あの薔薇色の夢の日々が蘇る。仁吉自身忘れてしまったような、他愛ない冗談や、食べたスイーツについてや、デートをした動物園でのエッチな猿の仕草や、仁吉が推薦したロックに対する感想やらが、お茶目なイラストと共に書き鏤められ……そして何よりも、仁吉の絵が入選することを祈ってくれてもいるのだ!

 それでも、日記は途中から、一気にその彩りを異にする世界に突入する。
 タレントへの道が開けそうなことへの憧れ。平凡な人生なんかイヤだという叫び。そして、あの剣持よしおを……

 仁吉は、醒めたコーヒーを喉に流し込む。

 そう。おんな垂らしの剣持に対する悪口と同時に……なんとか取り入って……のし上がってやる……と。

 当然じゃないか……!

 仁吉は冷静に考える。確かに……確かに、一時……ほんの一瞬だけれど……絵里子さんとの、平凡な結婚生活を夢見たことがあった。
 だけど……そんなことは、自分の独りよがりのエゴに過ぎないはずだ。

 日記はしばし空白が続き……たぶん、タレントへの意志を固め、勧められるまままに一重の目の整形を決意した日々なのだろうか?

 そして……あの、六本木の出来事。絵里子さんはこう綴っていたのだ。

 私はもう……仁君に会う資格がない。仁君のモデルになる資格もない。鏡を見た瞬間に、後悔した。これは……これは、私じゃない! 私は……もう、違う人になってしまった! 仁君……ごめんなさい。

 日記は再び空白が続く。

 そして、最後に……そう。絵里子さんが、マンションから飛び降りた日……

 ♬君が涙のときには 僕はポプラの枝になる
 孤独な人につけこむようなことは言えなくて
 君を泣かせたあいつの正体を僕は知ってた
 ひきとめた僕を君は振りはらった遠い夜
 
 好きだと言っていた中島みゆきの歌の歌詞が……まるで、遺言みたいに綴られていたのだ。

 仁吉は、絵里子さんのお母さんがビックリする位の声で、歌詞の続きを声に出した。
 
 ♬ここにいるよ 愛はまだ
 ここにいるよ ……

       ※

 それから一月は、吹く風のままにうち過ぎた。

 仁吉は入選した絵里子さんの肖像を、無償で絵里子さんのお母さんにプレゼントした。偽りのステージから、寛げる自宅に戻って欲しかったのだ。

 「本当の絵里子を描いてくれて、ありがとうございました。一生、大切にします」

 仁吉は断固として、絵里子さんの墓に詣でることを拒絶した。あの絵里子さんが、死ぬわけはないのだ!
 ついでに、強迫観念のナイフの衝動も押し殺した。絶対に、そんな事をしても、絵里子さんは笑ってなんかくれないだろう。思えば、ナイフといえば、パレットナイフにしか縁のない身であった。

         ※

 そして、思いを新たに……再びキャンバスに向かう。改めて絵里子さんの肖像を描こうとも考えたのだが、……本当の肖像以上の肖像画は、すでに心の画廊に飾られているのだ。

 仁吉が描き始めたのは、先に絵里子さんの瞳に描き加えた以外一度も描いたことのなかった、正真正銘の自画像であった。と言っても、以前のように鏡に向かうわけではない。
 そう。大切に保管してあった……絵里子さんが描いてくれた、仁吉の似顔絵を参考にしたのだ。アニメキャラみたいではあったけれど……よくよく見てみると……どことなく、自分の素顔が表現されているようにも見えるのだ。
 持てない「骨吉」なんかじゃ絶対ない。絵里子さんの目に映った……絵里子さんに愛されるのに相応しい……本当の自分の顔のような気がするのだ!

 描き上がった肖像は、我ながらビックリするような二枚目に仕上がった。たぶん、お母さんに進呈してしまった、あの絵里子さんの肖像画と「対」にして飾っても遜色はないだろう。
 
 しかし、絵はまだ完成していない。

 仁吉はヘッドホンから流れる中島みゆきの歌を聴きながら、描き上げた自画像の瞳に……あの絵里子さん……笑顔に揺れる、美しい一重まぶたの、本当の絵里子さんの顔を描き加え始めた……

 ♬ここにいるよ
 愛はまだ ここにいるよ

 いつまでも……

          了

 

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