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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】【恋愛小説】 紫水晶(アメシスト) 13章・14章

       

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 奴のおのろけに居眠りが出たせいか、もう少しで乗り越すところだ。慌てて閉まりかけた扉を擦り抜け、階段を駆け降り、改札を渡っていつもの地下街に踏み込んだ。
 とたん、俺は思わず立ち止まってしまった。そう。毎日通い慣れ、日常がラベルのように貼りついた地下街が、なぜか存在感の削ぎ取られた夢の世界のように感じられたからだ。普段とは違う時間帯のせいだろうか。相変わらずのろのろとした老いぼれが多く、齷齪とした生活のリズム感が希薄なせいだろうか。生れつきの方向音痴とはいえ、改めてあたりを見回すと、自販機から売店に至るすべての標識が、暗黙の矢印を消し去っているように見えるのだ。
 とにかく、歩き始めよう。頭の中で迷子になったところで、足は勝手に決められた地図の上を歩いてくれるだろう。

 ときに、奴は浮かれていて気にも留めなかったろうが、その頃妙な噂が耳に入ってきたのだ。
 りん子が、「ラビット」という渾名を持つ専務の「大神」と、人のいない会議室から出てきたとか、社外で一緒に歩いていたとかいう。それからもう一つ、その大神専務がトイレで、当人にはてんで似合わない唱歌を口ずさんでいたというものである。
 大神というのはすでに六十を過ぎた守旧派の世代ながら、その実なかなか柔らか頭の、デジタル玩具の急先鋒でもある。三十代で女房を亡くしてからは、こどもがいないこともあってずっと独身を通し、加えて長身のハンサム、無造作な銀メッシュの長髪がトレードマークであり、四十代で通る若さとソフトな物腰は女子社員人気の的である。あだ名の「ラビット」は特徴的な尖った耳先と同時に、好色な動物として知られる兎を揶揄的にひっかけたとも聞く。
 確かに、いくら飲んでも神色乱れず、おんなを口説く手口は、若輩の二枚目では足元にも及ばないという。もとより、頭の切れには定評があって、今の社長の信任も厚いし、それ以上に「影の社長」とも囁かれる人物である。水と油のはずのアナログ志向の奴の青臭い指先機能論を初めに評価したのも、実は守旧派の石頭連よりもいっそ大神専務だと聞く。より先を読める大神ならではとも言えるだろうが、もし俺なら何か訳がありそうだと勘繰ったやも知れない……

 まあ、それはさて置き、面構えにしても仕事にしても奴は急速に強かになっていったものの、おんなに関してのウブなところだけは抜け切らなかったらしい。交際も四箇月目に入ってから、ようやくりん子の肩をぶきっちょに抱けたという。
 もし俺なら、少なくともその頃にはベッドの中ですでに羞恥をなくしたりん子の裸身を横目に、どうやって後腐れなく別れるかを思案中というところだろうに……

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 何もかもうまくいっているはずなのに、ぼくは近ごろふと不安になることがある。たぶん、あまりにもりん子のことを愛し過ぎているせいだろう。りん子が、ある日突然いなくなってしまうような……
 人間というのは、辛い存在なんだとつくづく思う。人を愛すれば愛するほど、その人を失いたくないという気持ちがこころを締め付ける。幸せの光の中には、いつだって悲しみの影がしゃがみこんでいるのだ。しゃがみこんだきり、化石にでもなってしまえばいいのに……

 筋なんかもう覚えていないけれど、とにかく映画を見た帰りだ。
 近くに、イタリア人の老夫婦が自宅を開放しているという予約制のレストランがあって、地図アプリを頼りにあっちに曲がり、こっちに戻りしているうちに、すっかり迷子になってしまったのだ。腕時計で確かめてみると、予約の時間までたっぷり三十分はある。てっきり迷子の道行き。それもいい。
 寄り添ってしんみりと夜道を歩いているうち、出し抜けさっき見た映画のワンシーンが甦ってくる。そうなんだ。全く同じシチュエーションじゃないか。いや、待てよ。映画では確か男が先に立ち、おんなはその後から……そうか、あの映画はギリシャ神話のオルぺウスの冥府下りが下敷きになっていたはず。毒蛇に噛まれて死んだ妻のエウリュディケーを追って、冥界タルタロスへ踏み込むオルぺウス。竪琴の名手で、地獄の番犬ケルぺロスもめろめろ……そう、ぼくだったらハーモニカで勝負してやるさ。ついては、冥界の王様ハーデースに面会。ぼくなら大様の前で何を吹くだろう……ギリシャの神様に敬意を表して、「冬の星座」なんかいいかも知れない。ハーデースさんもきっと許してくれるはず。ついては、冥界から抜け出すまで決して振り返ってはいけないという約束を取り交わしたあと、オルぺウスはエウリュディケーがついてくるものと信じて歩き出す。でも、オルぺウスは疑心暗鬼にかられ、ハーデースとの約束を破って振り返ってしまう。

 はて、ぼくだったらどうだろうか? 試しに、ちょっと歩度を早めてみる。りん子にして、開演前にパンフに載っていたオルぺウス神話を熱心に読んでいたくらいだから、ぼくの意図をくんだのかも知れない。自分はわざと遅れて、そのくせちょっと足音を大きく踏んでついてくる。そう。ここは冥界なんだ。りん子は絶対についてくる。振り返ってはいけないのだ。
 それでも、だんだんと不安になってくる。なんだか、こども時代の悪夢を思い出してしまう。そうなんだ。重いインフルエンザで夢現つの時、ふと気がつくと、暗い洞窟みたいな所を歩いている幻を見たんだ。洞窟の先には、死んだはずのお祖母様が待っているような気がしたものさ。でも、ぼくはあの時、誰かに名前を呼ばれて、振り向いてしまった。目が覚めて、そこに心配そうなお母様の顔があったっけな。振り向いて良かったのだろうか、それとも……
 出し抜け、
「至さん!」
 りん子の声にぼくは思わず、振り返ってしまった。りん子は消え去る代わりに、現実の笑顔を点すと、
「わぁー、オルぺウスは失格ね!」
 やれやれ、すっかり嵌められたようだ。
 一足飛びに冥界を抜け出したぼくは、りん子が近づくのを待ち、その肩に手を回してみる。とたん、無意識の裡にりん子の肩を抱く手に力が入ってしまった。夜空に煌々と懸かっていた満月がふうっと雲間に隠れた瞬間、りん子がいとおしくて、不意に息苦しくなってしまったのだ。りん子の目がツッとぼくを窺うように持ち上がる。
 君が好きだ、大好きだ! そう言いたいのに、どうしても言えない。きっかけを作った時に、「好きになりました」と綴って以来、口に出してはまだ一度も言っていないのだ。それとも、ここまで好きになってしまうと、逆に言えないものなのだろうか。愛する気持ちというのは、言葉ではとても表現できないほどに熱い感情なのだろうか。そうなんだ。言の葉として口から離れたとたん、火を点けたユーカリの葉のようにメラメラと燃えてしまうのかも知れない。
 りん子の肩に爪をたて、少し掴むようになってしまった。りん子は口元をほんのり綻ばせ、ぼくを見上げたまま、じんわりと寄り掛かってくる。それから、蝶が羽を休めるような可憐さで、睫をそっと落とした。
 ちょいとばかり、架空の対話……

『君には、見えますか?』
『わたしにも、見えます』
『髪の毛よりももっと細い、硝子管のようなものが、地球を一回りするほどの長さでありながら、ぼくと君との重ね合わせた掌の間にシッカリと納まっているのが、君には見えますか?』
『わたしには、見えます。わたしたちのからだじゅうの血が流れこみ、わたしたちは透き通ってゆきます』
『君には、見えますか?』
『わたしにも、見えます』
『透き通ったぼくたちのからだの中で、それぞれ、赤い小さな甲虫が苦しげに蠢いているのが、君には見えますか?』
『わたしには、見えます。それは、魔法をかけられたわたしたちです』
『君には、見えますか?』
『わたしにも、見えます』
『掌の中の血が、再びぼくたちの透き通ったからだの中に流れこむのが、君には見えますか?』
『わたしには、見えます。かけられた魔法がとけてゆくのが』
『君は、信じますか?』
『わたしも、信じます』
『魔法のとけた赤い甲虫が、君のこころの中でぼくになり、ぼくのこころの中で君になることを……』
『わたしは、信じます』
『君は……』

 りん子は、何かを判ってくれたのかも知れない。
 目をぱっと一際大きく開くと、パステルで描かれた童画みたいな笑顔を燻らせ、わずかに、それでもシッカリと頷いてくれたのだ。
 ぼくたちは知らぬ間に立ち止まっていた。人影を消しゴムで消し去ったような、ひっそりとした街角だった。咲きはじめの真っ白い薔薇の覗く高い石塀の向こう、リストランテ『L'amore』の文字を浮き出すように、月が煙るような光を放ちながら又顔を出した。

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