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【連載小説】 彌終(いやはて)の胎児 8章〖55〗

       8章〖55〗

「はっは、大丈夫。卒業生だけは、一応『VIP』に敬意を表して……サービスに残してあるさ。とにかく、今日より『彌終学園』改め『彌終商事』というわけだ。だからこそ、一企業として、君がその名刺どおりの役職につく気はないかということですよ」
「そや。企業や。そして、わしは課長。な、社長……」
 ヤスが頼もしげに教頭を見下ろすのに、
「実はね、私は胎児の怨念が生み落とした『桃源虫』の観察、研究を続けた結果、ようやく商品として利用価値のある品種に改良しつつあるんです。そう。餌として与える例の夢を吸い取った乾板……虫によって食い方に違いがあるんですよ。それぞれ好みがある。それらを掛け合わせているうち、ある品種は夢のこの部分を、別な品種は夢のあの部分をと。しかも、このヤス君に頼んで生体実験もしてもらった。つまり、闘争本能に当たる部分を特に好む虫の卵を、ヤス君が身を寄せる組きっての向こう見ずに飲ませてみたわけだ。ヤス君、結果はどうだったかね……」
「まるで腰抜けや。出入りの時、しょんべんちびって、いっとう先に逃げた」
 教頭は大きく頷いてから、肘掛け椅子に深々と腰を下ろすと、
「どうだね、向井君。校長もたいした遺産を残してくれたもんじゃないか。人間のこころの雑多な要素を、お好みしだい、いかようにも食い散らしてくれる。狂気は温和に、怠け者は勤勉に、好色漢は禁欲者に、共産主義者はブルジョア崇拝者になる。素晴らしい虫だとは思わないかね。例えば、ある組織にとってケムタい敵がいるとする。もちろん、敵というからには並々ならぬ能力を持っている人間だ。そういう手合いに対し、古典的な方法では脅迫と報奨による条件づけで懐柔するか、あるいはコロシの二通りしかない。どちらにしても、あまりスマートとは言えない。しかし、『桃源虫』を使えば、怨敵変じて、いっそ頼もしい味方にもなる。言ってみれば、私は人のこころを随意に消去できる消しゴムを手に入れたに等しい。
 しかもだ。私の『弟』、つまり娑婆でのもう一人の私は勉学一筋……まあ、学歴社会はとっくに終ったとはいえ、多少の看板にはなることだし、もちろん、父上の威光もあって、それなりの地位を得るだろう。何も、例のマヤカシの『成功の回路』どおりの大物である必要はない。まあまあの地位で結構。その時こそ、私と『弟』は涙の対面をすることになるだろう。『桃源虫』の霊力をもってすれば、『弟』は一気に現実社会の帝王になれるだろうし、私は夢の世界の帝王だ。芝居の筋書きどおりに間違いはない。こんな私に初期から君が仕えてくれるなら、大変な出世じゃないかね。部長の肩書きが不満なら、そう、専務でもいい……」
 教頭はそこまで淀みなく弁ずると、ゆとりを溶かし込んだ冷徹な瞳を眼鏡の奥に光らせて啓吉に一瞥を送った。
「と言うことは、さしずめぼくのこころの一部も、その『桃源虫』とやらに食わせるコンタンかな」
「お望みとあれば……が、そうは言わない。私は、君の情熱を高く買っているのだよ。その情熱をぜひとも『桃源虫』に注いでもらいたい。こころの中にヒトラーを持ちたまえだ。虫の力を借りずに、不要の夢を抹殺したまえ。そうすれば、まさしく『VIP』候補。私の腹心。はっは、君なら出来る。現に、こちらのヤス君ですら、それを証明してくれた」
「証明?」
「そのとおり。ヤス君はそこにくたばっている受付嬢を愛していた。指も触れられないほどにね。しかし、ヤス君は私の目の前で、愛とはそのおんなをレイプすることだと、立派に示してくれた。はっは……素晴らしい蛮勇ぶりだったよ。とにかく、愛などという雲のように、あやふやにして曖昧な夢を一刀両断抹殺し、性欲という単純無比なる美しい行為に収斂してくれたよ。雲変じて水になってこそ、手に掬い飲むことも出来ようというものさ。同様に君も、五S‐三号……確か、娑婆では加代子さんと言ったかな。その加代子さんを暴力をもって穢して、私に証を立ててもらいたい」
「…………!」
「いい大人のくせに、何をビビっているのかな。愛一筋なんてキレイごとはやめよう。君だって、いっ時は私の秘書の誘惑に乗りかかったんじゃないかね」
 御息所嬢は紅い唇をひと舐めすると、
「わたくし、知ってましてよ。豚の、あ、シツレイ……向井様がわたくしに欲情なさったのを。あそこはモッコリ、そしてお目を血走らせての野性的な愛撫。わたくしの森に住む鰐も鯰も糸蚯蚓も、手ぐすね引いてお待ち申しておりましたのに……」
 教頭の顔が幾分険悪に曇ったかと思うと、つい肘掛けから立ち上がったのが、背後から出し抜けに御息所嬢の胸をかき抱いた。
「あっ、イケナイ、社長さん。感じちゃう。嫉妬なさったのね。大丈夫。こころを仕舞うこの胸だけはシッカリと社長さんのモノ……」
 教頭は御息所嬢から手を離すと、一度背中を見せ、すぐに向き直ると、何事もなかったかのように続けて、
「……とにかく、証を立てた後は、いっさい五S‐三号のコトは忘れることだ。どうせ本来ならば、死にぞこないの『VIP』の慰みものになるのが定め。そう、まさしく君は『VIP』扱い……」
「だけど……」
 言い掛けて、啓吉は言葉を失った。あからさまに立場逆転、いっそ老獪な大人を前にやりこめられる、無垢で単純な少年になっているようであった。
「だけど? はっは……まさか君は、五S‐三号をここから連れ出し、娑婆の加代子さんとやらと合体させるつもりじゃないだろうね。大人なら、少しは成熟した考えを持ちたまえ。私はすでに、『狂龍会』に命じて君のことも、娑婆での加代子さんの生活ぶりについても調べてあるんだ。娑婆の加代子さんは十分今の同棲生活に満足しているよ。メンバーの一人をコンドームのセールスマンに化けさせて訪問させたところ、顔を赤くして随分たくさん購入してくれたそうだよ。どうせ粗悪品、近いうち妊娠するんじゃないかな。そんな加代子さんの愛の巣に五S‐三号を連れていって合体させたとしたら、かえって不幸にするとは思わないかね。不倫の勧めかね。それとも、娑婆では名前を持たない幽霊のような五S‐三号に心中立てする心意気かね。遅かれ早かれ、まあ四十九日というのは迷信としても、いずれ現実に対する拠り所を失って雲散霧消してゆくというのに……
 まあ、仮に一歩譲って、君の理想どおりの合体で、再び加代子さんが君を愛するようになったとしても……え? どうする? 私は君の現実も調査してあるんだよ。わざわざ言う必要もあるまい。悪いが、今の君に、元女優という潜在的には虚栄心の強い加代子さんを幸せにする資格はない。少しは現実的になりたまえよ。『彌終商事』で君が出世すれば……そう、いっそ加代子さんの娘の処女膜に狙いを絞ってみてはどうかね……はっ、はっ、はっ、はっ……」
 たかだか十一、二のガキに翻弄され、見事打ちのめされたようであった。それとも、この少年は少年事務長が言ったように、すでにこどもではないのだろうか。舞台の少女が言った「腐った夢」という科白が突拍子もなく浮かぶ。
 教頭は葉巻を金盥の中に投げ捨てると、さらに続けて、
「要するに、事業を起こすに当たって、私には娑婆の人間である君の協力がぜひとも必要なんですよ。そう。確かに『狂龍会』も娑婆の人間だが、あいつらは馬鹿だ……」
「わしも馬鹿か」
 ヤスが間の抜けた調子で口を挟むのに、
「ヤス君、君は馬鹿じゃない。少なくとも『胎児教』なんてインチキに引っ掛からなかったじゃないか」
「よく判んなかっただけや」
「はっは、ヘタに判る奴よりは、判らない奴の方が社会に於ては利口と相場が決まっているのさ」
「アンガトさん」
「『狂龍会』の連中だって知ってるのさ。自分達の行く末が、所詮三下ヤクザか右翼の使いっ走りだってことをね。そこの急所を掴んで、ここの教師達が回路によって権力者になった暁には、彼等を重用すると信じ込ませる。見事な犬になってくれたよ。まあ、いずれ『桃源虫』を使って、本当の番犬として再編成するつもりでいるがね。
 まあいい。とりあえず、私は『弟』と涙の再会を果たすまでに、一応の実績を作っておかなくてはならない。手始めに、労働組合に悩まされている工場なんてどうかな。ところが、ヤス君のセールスじゃコロシの方と勘違いされかねない。どうしたって、多少は頭のある紳士然とした向井君の協力が必要になる。
 どうかね、天国と地獄、どちらを選ぶかね。もちろん、天国に決まっている。さあ、五S‐三号のところに行こう。そして、証を見せてもらおう」
 否応を言わせぬ口調で言い終わると、教頭は御息所嬢とヤスを従えて校長室を出た。奇蹟を祈りながら、啓吉も後についた。しかし、どのような奇蹟。頭は空白であった。

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