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【短編小説】 幻の少女

 あらすじ
 九年前、順也と母上は上野の美術館で、たまたま知り合った同年齢の女の子を連れた親子づれと親しくなる。そう。空(そら)ちゃんという、当の女の子こそ、順也の初恋に違いない。空ちゃんは無口ながらも、別れ際、順也の手を握って言ってくれたのだ!
「叉、会えるよね」……と。
 そして時が流れ、順也も高校生。そして、現実を知る。
 そう。空ちゃんとは架空の女の子……つまり、母上と知り合った女の人が流産してしまった、生きていて欲しかった願望であった。
 なら、かの美術館で見た空ちゃんは……幻?
 嘘だ! 順也は今でも、空ちゃんの手の温もりが消えていない。
 順也は、母上が貰っていた年賀状の住所を頼りに、架空の空ちゃんに会いに……
 
 

 (恋愛小説) 幻の少女

 開け放った窓から見上げる夜空の、流れ込む五月の生暖かい風が頬をかすめた瞬間、順也はふと九年前の一場に遡ってゆく感触を覚えた。

 そう。忘れもしない、「空(そら)ちゃん」のことだ。

 目を閉じれば……ほとんど、タイムマシンにでもさらわれたみたいに……あの時の舞台に舞い戻る。

          ※

 確か、八歳かそこらだろう……美術好きの母上に連れられ、上野の都美術館で「バルテュス展」を見た帰りのこと……
 子供の順也にとってバルテュスなんか興味の対象ではなかったけれど、些か強引な母上に連行されてという形であった。

 展示されていた絵には退屈のしどおしで、いつの間にか母上は会場で知りあったらしい同年齢の女性と親しく会話を交し、……扈従(こじゅう)という感じの順也は不貞腐れ気味だったのだが、……当の女性と連れ立った同学年と思える女の子のことは、ずっと気になっていたのだ。
 紺色のシックなドレス、長い髪、ちょっとオドオドした大きな目、照れ臭そうな笑みを燻らす口元……あんがい、これが順也の初恋だったのかも知れない。

 会場を出る頃には、母上と件の女性はほとんど旧知の間柄という雰囲気で、さっそく四人揃って何処かでお茶でもという段取りであった。

 近くにはスタバもあったけれど、土曜日の昼下がり、入口には行列がくねり……結局は別の、山小屋みたいなカフェで休むことになった。

 母上達大人は、意気投合するも当然の、お互い父親のいない家庭環境のようであった。見たばかりのバルテュスの感想以外にも、子供には理解出来ない苦労話も混じっていたのだろう。

 それでも、順也は少しも退屈ではなかったのだ。

 なぜって。そう、テーブルを挟んで座った、「空ちゃん」という名前の女の子との、視線のやりとりが楽しかったのだ。
 言葉としての花は結べなかったけれど……目交ぜと仕草だけで、「ね!」「だよね」「そうよ!」……そんな、小鳥の囀りにも似た、心の交感……

 空ちゃんの話になると、順也も耳を傾けて大人の会話に割り込んでみたくもなる。両親揃って女の子が欲しかったこと、生まれる前から「夜空の星の、空」という名前を決めていたこと。
 それでも、そんなご両親がなぜ離婚したのかとか……勿論、難しい家庭の事情なんかは理解出来なかったけれど……

 カフェでは軽食もとり、大人達はコーヒーのお代わりもして、たぶん一時間以上は居座っていたように思う。

 そして、漸くお開きになりかけた時だ。空ちゃんが不意に手を伸ばしてきて、順也の手を握りしめたのだ!
 口数も少なく、始終俯き加減だったのに、その瞬間の空ちゃんは……大きな目を見開き、文字通り瞬き一つせずに順也を見詰めてくるのだ。
 手にも、なんだか必死とも言える力がこもっていて、順也にして照れる以前に、その力に圧倒された感じであった。
 母上達は、そんな切実な状況など無視するそぶりで、お喋りのクライマックスに余念がない。

「叉、会えるよね……」

 空ちゃんは、泣きそうな声で、確かにそう言ってくれたのだ。

           ※
 順也は目を開く。

 あの瞬間、「うん」と答えた気もするのだけれど……

 不思議なことに……それ以降の記憶が、順也からはスッポリと抜け落ちているのだ。カフェを出てからのことはおろか、空ちゃん母娘とどこで別れたのかも、全く判然としないのだ。
 家に戻ってから、会場で買ったバルテュスのカタログを母上が紅茶を飲みながら見ている図だけは、かすかながら覚えているのだけれど……

 それから九年の間、順也にとって空ちゃんの存在は、ほとんど夢の住人のようであった。時々思い出すことはあったけれど、……実際のところ、その後母上と空ちゃんのお母さんが友達になったわけでもなく、単なるゆきずりの仲だったのだろう。

 空ちゃんに会いたい! 叉、会おうって約束したじゃないか!

 九年間抑えてきた気持ちが、順也の心の中……不意に爆発たようであった。

           ※
 翌日の夜、順也は本箱から探し出したバルテュスの懐かしいカタログをテーブルに置いて、母上の帰宅を待った。母上は近頃仕事が忙しく……ファッション関係のディレクターという責任もあって……夜九時を回らないと帰ってこないのが習いなのだ。

 遅めの夕食後、順也が自室から出て居間を覗くと、予想どおり、母上は紅茶を啜りながら、順也が本箱から取り出しておいたカタログに目を落としている。

 そう。今まではなんだか照れ臭くて、話題にすることを避けていたのだが……今夜こそ、その後の空ちゃんのことを訊ねてみたいのだ。

「お袋……あのさ、ちょっと話があるんだけど……いいかな?」
「何よ、改まって。……受験のこと?」
「実は、空ちゃんのことなんだけど……」
「あら……順也にも好きな子が出来たの? 誰? クラスの子?」
「そうじゃなくて……その、昔お袋と行った『バルテュス展』で出合った、女の子の……」
「えっ? ……そう、元子さんのことかしら……」
「元子さん?」
 話によると、例の展覧会場で知り合った女性の名前らしい。
「でさ……その時、僕と同じ年頃の女の子がいたでしょ。確か……空ちゃん……」
「……待って。そう……思い出した……。空ちゃんって名前、生まれてきたら……その名前にするんだって……」
「生まれてきたらって?」
「可愛そうに……お腹の子を元子さん、流産したそうで……。まるで流れ星みたいな子だって言ってたわね。でも、それが原因で、ご夫婦仲も険悪になって離婚されたとか……」
「流産? じゃ、あの時その元子さんと一緒にいた女の子は?」
「何言ってるのよ。元子さん一人よ。幻でも見たんじゃないの?」

 嘘だろ! 空ちゃんは、この世に存在するはずのない……幻の少女だとでも……

 嘘だ! 「叉、会えるよね」……確かに、そう言ってくれた言葉の揺らぎも、力強く握りしめてくれた掌の感触も……いっそ、今まで以上に確かなものに感じられるのだ。

 母上の話によると、順也が思った通り、元子さんとはその後、親しく交を結ぶこともなかったらしいが……一度だけ、年賀状が投函されたことがあったらしい。
 幸い、母上は整理魔な所があって、その年賀状はすぐに見つけることが出来たのだ。

 見れば、差出人として、「飯田元子」と記された隣に、「空」と書き加えられていたのだ!

 冷静に考えてみれば、納得出来ることだ。たぶん、元子さんにとっては……生まれてこなかった娘の空ちゃんも、決して空しい存在ではなく……いっそ、心の中では、生きて……成長を続けているに違いないのだ。

 そして、その考えは、順也の確信でもあった。

           ※
 明けて、順也は学校の帰り、電車を二つほど乗り換えて、元子さん……いや、空ちゃんが住んでいるはずのアパートに足を向けた。

 初めての街でもあって多少面食らったが、「壷中莊」という風変わり名前の……どこか昭和レトロのアパートは、小さな工場の建ち並ぶ狭間に、身を屈めるみたいにして順也を待ち受けていた。
 一階には「飯田」という名札はなかったが、痘痕(あばた)状にペンキの剥げた鉄の階段を上ると、左から二番目の部屋に確かに「飯田元子」という名札……しかも、その隣には例のはがきと同じく「空」と書き添えられているのだ。

 しばし躊躇ったあと……順也は思い切って扉をノックしてみた。返事がない。改めて、ノック。

 ……留守なのだろうか?

 もう一度、ノックをしようとした時だ。

「あの……お母さんに、ご用でしょうか?」

 背後からの呼びかけに、びっくりして順也が振り返ってみれば……

 紺色のブレザーの制服、長い髪、ちょっとオドオドした大きな目、照れ臭そうな笑みを燻らす同年齢の少女が、そこに立っていた。

  ……叉、会えたね……

                  了

           


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