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【連載小説】 彌終(いやはて)の胎児 8章〖58〗

      8章〖58〗

 その時、背後に迫っていた火焔男が、叫喚(きょうかん)忌(い)ま忌ましくどっと突進してくるや、教頭のすぐ脇を走り抜けた。炎は飛沫となってあたりに散り、弾け、踊り、舞い上がる。
 火焔男は迷路を辿る鼠のように一度は西校舎の方に走り込んだが、そこに浄土を求めるべくもなく、炎を撒き散らしつつ再び戻ってくるようであった。

 次の瞬間、背後に別口の叫喚が沸き起こった。見れば、髪の毛に火がかかって逃げ惑う生徒達、それを追う足弱ぐるまの老いぼれどものひと群れであった。老いぼれどもは下半身剥出しの、萎れた陰茎を靡かせつつも、鞭やロープを掴み、いまだ愛し夢に酔い痴れているけしきであった。それでも、狂気のひと群れは階段を塞ぐようよろよろと降りてゆく火焔男の地獄のさまにけおされたか、敢て炎の立ち始めた焦熱の西校舎に次々と消えてゆく。

 泣き喚く教頭の服にも火は移った。ヤスと御息所嬢が慌てて上着をはたく。
 今だ。思う間もなく、
「キャー! むし、虫、蟲……」
 御息所嬢の金切り声。そして弾けるように教頭から飛び退いたのが、気が動転しての集団心理か、階段ではなく、先のひと群れが重なり合って薪(たきぎ)と燃える西校舎の廊下に走り込み、ヤスも又、赤布に突進する猛牛のようにその後を追った。深紅のドレスはたちまち炎に変じ、木刀も油を帯びた松明さながらに燃え上がる。

 つられるな。落ち着け。啓吉は加代子の手を掴むと、唯一の逃げ道たる階段の方に走った。いまだ号泣しながらからだをよじる教頭の脇を擦り抜ける間際、思わずの戦慄に階段を踏み外しかけるも無理はない。確かに、虫。そう。教頭自身、てっきり『桃源虫』の飼育箱であったごとく、その顔から首から手から、何千匹何万匹とも知れぬ蛆虫が、まわりの熱気に耐えかねたけしきに身悶えながら、皮膚を食い破って次々と這い出しているのだ。
 しかし、今は夢食う虫よりも、肉を焼く火が焦眉の急であった。火焔男の撒き散らした炎は、木といわずコンクリートといわず、鉄といわずガラスといわず、みな一様に燃やし、焼き尽くそうといきりたち、階段を降りるのもほとんど曲芸に近かった。踊り場に、四つんばいたどたどしく、からだを痙攣させながら進む少年事務長を見たが、もとより手を貸すゆとりはない。

 それでも、二階まで降りてみると、下から炎が音をたてて吹き上げていて、これ以上階段を利用することは不可能であった。北校舎の廊下も半ば近くまで炎がうねり、黒煙はあたかものた打つ巨大な芋虫のように立ち塞がった。
 残るは、西校舎の方角しかない。その廊下はいまだ数本の火炎瓶が炎上している程度であり、しかも外れには非常階段があるはず。二人はその方に走る。しかし、理科室の前まで来たとたん、中から火焔男米蔵の炎に包まれた巨体がふらりと現われるや、仁王立ちになって非常階段を塞ぎ、天を仰いで声を絞る。
「神様、仏様。殺してくださいませ。楽にして下さいませ。成仏でございます。アーメンでございます。南無阿弥陀仏でございます……」
 四方八方炎の後光を発する火焔男の脇を擦り抜けるなど、サーカスのライオンでも出来る芸当ではない。かといって、後戻りはできかねる。
「どいてくれ。どけ! チクショウ!」
 啓吉は思わずがなりたてたが、火焔男に聞く耳はない。

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