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【連載小説】 彌終(いやはて)の胎児 8章〖59〗

        8章〖59〗

 切羽詰まり、二人はとりあえず理科室に飛び込んだ。椅子を武器に、火焔男を非常階段から突き落とす算段であった。一刻の猶予もない。やがては鉄の階段もメラメラと燃え、万事休す、南無阿弥陀仏はいっそこちらの運命だろう。
 教室の後ろ半分はすでに炎に包まれ、磔刑美少女だけが揺らめく影を映し、血の池が迫りくる炎を塞き止め、切り取られた小さな浄域を作っている。しかし、見惚れている場合ではない。啓吉は椅子を手に取った。

 その時、加代子の、はっと息を飲んで注意を促すのに、つい入り口の方に視線を放てば、ああ、そこに敗残かくれもない教頭の姿があった。這い出した蛆虫はすでにして顔全体を覆い、目鼻も定かならず、カリフラワーか、いっそ剥出しの脳味噌のようであった。教頭はもはや二人の存在など無視したまま、足を引き摺りつつ入ってくるなり、
「お姉ちゃあーん!」
 切な気に声を絞り、倒れこむように磔刑美少女の腰にしがみついた。唖然とする間もなく、これを追うよう少年事務長が這いずりながら理科室に入ってくるや、懸命に立ち上がったのが、
「しのぶちゃあーん!」
 精一杯の声を張り上げ、これ又、教頭と並ぶよう磔刑美少女にむしゃぶりついた。

 二人の少年にすがりつかれた、その瞬間、聖母なす少女の口元が確かに微笑んだ。慈悲。慈愛。すべての呪いが溶けてゆくようであった。と見るや、床に流れる血がアルコールででもあったごとくにボッと音を発して引火、透明の十字架は二人の少年もろともたちまち炎に包まれた。
 そして、奇蹟が起こった。炎のベールの中、少女は釘の打たれた左手をグイと黒板から引き抜くと、腰に抱きつく二人の小年をスカートの裳裾もて慈しむようにくるんだのだ。
 突然、一陣の風とともに白い無数の薄片がぱあっと炎の中から弾け、そして舞い上がった。白い羽虫。そう。一瞬のうちの『桃源虫』の羽化であった。

「お助けを……お助けを……」
 背後に祈りの声を聞いた。振り向くところに、火焔男。磔刑美少女に最後の救いを求めるよう、ふらふらとこちらに近づいてくる。チャンス。啓吉は呆然と立ちすくむ加代子の手を引くと、理科室を飛び出し、非常階段を飛び降りるように下った。
 降り注ぐ火の粉に混じり、羽化した『桃源虫』が雪虫にも似て校庭いっぱいに飛び交っている。その中を、火の点いた枯葉さながらに少年少女達が浮くでもなく飛ぶでもなく舞い上がる。
 炎は風を呼び、風は竜巻をつくる。『狂龍会』のオートバイが方向を失ったけはいに走り回り、ぶつかり合って炎上したのが、次々と宙に吸い込まれてゆく。
 巻き添え避けるよう、二人は無人の駐車場を息を詰めて突き進み、鉄扉を薙ぎ倒し、金網の木戸をぶち破って裏門の方に走った。火はすでに体育館にも延焼しているようであった。火の粉と白い羽虫が斑に混じり合う中、青白い炎を発して昇天してゆく白蝋のような生徒達の姿が見える。
 二人は『死者の待合室』を示す矢印とは逆行して走る。白い羽虫が、あたかも卵でも産み付けるかのいきごみでまといつく。愛を、夢を、誰が食わせるものか。墓地の樹々が間近に迫る。遠くから読経が流れてくる。二人は裏門を突っ切って……

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