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【創作大賞2024応募作恋愛小説部門】【恋愛小説】 紫水晶(アメシスト) 15章・16章

       

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 オルぺウスごっこの終着点がL'amore……「愛」とは、ドジの道行きも案外洒落ているようだ。ここは一つ、奴の手口を拝借するのも一興だろう。そう。オルぺウスの神話でまずは女の子をロマンチックな気分に引きずり込む。相手のおんなはもとよりエウリュディケーの見立てだ。俺が先にたち、繁華街を横道にそれる。ここは自信を持って、絶対に振り向いてはいけないのだ。やがて、人通りの絶えた小路の先、月明かりに照るはリストランテならぬ、地上の楽園ラブホテルの『L'amore』という寸法だ。ここに至って、振り返ってみる。当然俺のことだ、エウリュディケーは消えうせることなく、そこに立っているはずだ。はっは……

 待てよ……奴に付き合ったせいで、どこを歩いているのか分らなくなったようだ。
 俺は再び立ち止まった。もうとっくに地下街を抜け出していいはずなのに、前も後ろも相変わらず雑貨屋や宝石店、洋酒専門店、本屋、レストラン、鞄屋なんぞがうんざりするほど続いていて、堂堂巡りでもしているけはいだ。どうやら、習慣というやつを過信していたらしい。とりあえず、階段を探そう。地上にさえ出れば、まさかこの生まれ育った大都会の真ん中で迷子ということもあるまい。
 ふと目に入ったショーウインドーの、ひっそりと照り映えるウェディングドレスが、やけに眩しい……

 そう。交際も五箇月目に入る頃から、奴はすでに具体的にりん子との結婚について考え始めたようだ。のんびり屋の奴にしてはいささか性急な気もするのだが、もしかしたら、何かに追われているという切迫感でも覚えていたのかも知れない。
 確かに現代というのは、あまりにも純粋なものが生きてゆくには少々毒が多すぎる。潔癖や誠実なんぞという骨董的美徳が通用しないことくらい、欲望の絡んだ昨今では常識だろう。要するに、清濁合わせ飲める強靭な消化器官なしには、強かには生きられないということだ。まったく、奴のようにおんなに対して免疫のない男は困る。
 そんな奴だが、春めいた三月も下旬近くになって、ようやく雄としての本能が蠢動を始めたらしい。遅れ馳せの春一番が吹いて、間もない頃のこと……

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「好きなんだ」
 と、ぼく。
 やっと言えた言葉だった。しかし、いささか表情に乏しかったきらいがある。抑揚が足りなかったのかも知れない。それとも、やはり夕日に染まった海を見ながら口にすべきだったろうか。ともあれ、ぼくたちお気にいりのデートコースである動物園で、りん子の背に手をあてがい、ちょうど狸の檻の前だ。ムードこそ今一だが、お誂え向きに人影もない。それでも恥ずかしいので、視線は檻の中。
「そうなの」
 と、事もなげなりん子。なんとなく、素っ気ない。顔が紅潮するどころか、いっそアルコールを塗られたみたいな感じだ。思い切って、もう一度だ。
「本当に、好きなんだ…………」
 どうも、ぼくの科白は棒読み的というのか、我ながら情感ってやつが欠落しているようだ。むしろ、トリルからビブラートまでお手のものの、ハーモニカで表現した方が賢明だったかも知れない。知らず、ポケットのハーモニカをまさぐりかけていると、りん子もようやく重い口を開いて、
「わたしもよ。うん。けっこう親近感を覚えるのよね」
「親近感って?」
「ええ。わたし、小学生の時、『豆狸』って、渾名をつけられてたことがあるの……ううん、ずっと低学年の頃よ」
「……たぬき……?」
「そうよ。あなた今、狸のコト好きだって言ったでしょ。渾名のコト思い出しちゃって」
 なんてこった。要するに、ぼくのように言葉に情感の託せない人間は、正確な文法をもって話さなくてはいけないのか。ええい、もう一度だ!
「ぼくは、りん子さんのことが、大好き、です!」
 りん子は、大きな目を少女漫画のヒロインみたいに一杯に開き、ピクンとぼくの方に顔を向けるや、おかしいくらいに頬を染めた。ついで、「いや!」という小さな悲鳴とともに、ぼくの腕を振りほどいて走ってゆく。

 訳が判らないままに、ぼくは後を追った。手にしたポップコーンが風に乗る。風の道を割って、徒競走の小学生みたいに、トコトコけなげに走るりん子が見える。しなやかな豆狸? ぼくは狩人だ。ぼくは野獣だ。ダプネーを追うアポローンだ。君は月桂樹になってはいけない。流れる血を持った、ぼくのフィアンセであれ。
 ようやく、りん子が一つの檻の前に立ち止まる。背中を見せて、ちんまり観念しているようだ。ぼくも追い付いて、両手をそっとりん子の肩に置いた。小さな肩が弾んでいる。てっきり、ラブストーリーのワンシーンじゃないか。
 と、なんと……目の前の檻の中、素性の悪いエテ公め、大っぴらに交尾をしゃがる。りん子がくるっと、ぼくの方にからだを向ける。計ったように、そのからだがぼくの腕の中にすっぽりと収まってしまう。丸い、なだらかなりん子の肩がとってもあったかい。目の前にシッカリとりん子の顔。まだ少し息が荒い。りん子の唇がはにかむようにピクピク動く。繊細な歯並みが時々しっとりと光る。透明な言葉が、ルージュの匂いに乗って漂ってくる。ぼくは、その意味を了解する。しかも、一続きの流れのように、そうしないわけにはゆかないのだ。ぼくは、初めて、りん子と唇を合わせた。ピリッと痺れたっきり、一瞬、世界中にぼくたち二人だけしかいないような気がして……
 おもむろに、顔を離す。しばらくの間、りん子は目を閉じたままだ。それから、コクリと何かを飲み込むよう喉のあたりを動かし、そっと目を開く。目薬をさした後のようだ。瞳の中で、ぼくの顔がユラユラと、ぼくのこころみたいに揺れている。
「……わたしも……至さんが、好き」
 りん子の、染みいるような言い方。息が詰まるほど切なくなった。少し人目もあったけれど、周りのやつらなんかてんで気にならない。いっそ、見せ付けてやりたい気分だ。
「ぼくは、その千倍、君が好きだ」
「わたしは、その一万倍……」
 りん子はそう言って、ぼくの肩に頬を擦り寄せてくる。生きてるんだな……と、ぼくは思った。

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