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ベルリンのイスラエル人

今日のル・モンド紙にとても興味深い記事があった。題名は

「安全な場所がなくなってしまうのではと案ずるイスラエル人たち」

記事によれば、ドイツの首都ベルリンには、現在、1万〜1万5千人のイスラエル人が住んでいる。二重国籍者の多くはこの統計に含まれないそうなので、実際の数はさらに多いのだろう。ネタニヤフ政権に象徴されるイスラエルの政治に嫌気がさしたから、ハイテックを始めとする仕事のチャンスやコスモポリタンで自由な雰囲気に溢れるベルリンという街に惹かれたから、あるいは他の大都市に比べて家賃や生活費が比較的安価であったから、等々、理由はそれぞれだけれど、ここ十数年の間にベルリンに移住するイスラエル人の数は一気に増えたそうだ。

そんな中、この記事はベルリン在住のイスラエル人五人に取材している。10月7日のハマスによるイスラエルへの攻撃、そしてその後の戦闘により、イスラエルから遠く離れたここベルリンで、「変わってしまった彼らの日常」に焦点を当てたこの記事は、ガザで起きていることがどんなコンテクストでベルリンに飛び火し、どんな空気をそこにもたらしているかをリアルに描いて非常に考えさせられるものがある。

ヘイトとサポートに挟まれて

一方でこの期に一挙に吹き出した感のある一連のアンティセミティズム(ユダヤ人ヘイト)の動き。ユダヤ人個人への攻撃だったり、施設への攻撃だったり、ユダヤ人が住んでいると思われる建物に次々と落書きされたダヴィドの星だったり、あるいは親パレスチナのデモにおける暴力的なスローガンだったりと表現は様々だけれど、こうした出来事は、この街に住む個々のイスラエル人にとって決して心穏やかにやり過ごせるものではない。タクシーアプリの名前を「ユダヤ人ぽくないようなもの」に変更したり、特定のエリアには子連れで出かけるのを避けるようになったりと、それまでのベルリンでの暮らしでは感じたことのない「恐怖」が、彼らの日常の行動様式に小さな変更をもたらしているのだという。

その一方で、10月7日以降、すぐさまドイツは「イスラエル・サポート」の姿勢を明確に打ち出し、それはその後の展開の中でも変わることなく一貫したものであり続けている。「いかなる形でのアンチセミティズムも、我が国においては決して許容されない」という政府のメッセージも繰り返し出されているし、メディアの論調もそれに沿ったものになっている。いうまでもなく、それはナチス時代への反省に基づくものであり、一旦そっちへと揺れ動いてしまったら次に何が起きるかわからないという集団的記憶(とそれを強化してきた教育)がもたらす恐怖にそれが裏打ちされていることは、はたで見ていて痛々しいほどである。

同じ反省に基づき、ベルリンの街中ではいたるところにホロコーストの痕跡をとどめおこうという意思が見て取れる。ホロコーストモニュメントしかり、収容所送りされた人の住んでいたすべての建物の前に敷かれた「つまずきの石」しかり。

この街に住むイスラエル人は、皆、ベルリンが好きでここにやってきたわけだし、インタビューされた人たちは異口同音に「イスラエルよりここの方がずっと住み心地がいい」「自分に合っている」と思い続けてきたという。だからこそ、10月7日以降、この街で体感する「ヘイトとサポート」という両極に挟まれて、彼らは当惑しているのである。

潰えた希望

ドイツで現在、ユダヤ人ヘイトが増大する背景には、ドイツがシリアからの難民100万人を受け入れたことも関与しているのだろうか? そんな問いが、ニリットさんの心を切り裂く。

ベルリン在住歴18年になるニリットさんはいう。
「ベルリンで最も感動的だった出来事、それは私が通うシナゴーグが2015年の冬、シリアからの難民のためのアクションを起こしたことでした。コミュニティのユダヤ人たちが、難民家族のために立ち上がり、子供達の世話をし、炊き出しをしました。もちろん最初は少し怖さがありましたが、連帯感の方が勝ったのです。同じ人間なんだ、という。私がアラブの人たちと初めて友達になれたのは、エルサレムではなく、ここベルリンだったのです。そのことを今でも感謝していますが、ここに住む多くのイスラエル人たちは、この自由で寛容な街ベルリンでかつてそんなふうに共有されていた希望を打ち砕かれてしまいました」

ニリットさんは今、ヴィヴィアン・シルヴァーさんに想いを馳せる。ニリットさんの個人的知人だったこの女性は、ガザの近くのキブツに住む平和活動家。「ガザの病気の子供たちをイスラエルの病院へ自分の車で連れて行く活動をずっとしていました。でもハマスに殺され、焼かれてしまった」

世界中の親パレスチナのデモで用いられるスローガンに「川から海へ。自由なパレスチナを」というものがある。二国共存でなく、パレスチナ一国の存在のみを希求するこのスローガンは、イスラエルの人にとっては「つまり、私たちの国を抹消すること」としか聞こえない。2万4千人を死に至らしめたイスラエルの攻撃に対する抗議の声が世界中で共感を呼ぶ中、ニリットさんは自分の立ち位置をどう定めてよいのか、という葛藤の日々を生きている。


少数派の感覚であることは重々承知の上で

この記事の最後に紹介されるのはモッシュ・サカルさん(作家)とドリー・マノールさん(詩人、エッセイスト)。彼らの言葉は、現在の私自身の心境に最も強く訴えるものがあったし、ここにこそ希望があるのでは、という思いを強く抱いた。記事のその部分のみ、訳出をしてみる。

イスラエルで知り合った二人は、ハマスの虐殺事件の日以来、ずっと抱いてきた「大きな喪失感と断絶感」、そして「書くことができない状態」について語る。その一方で、二人はイスラエルに対するベルリンの無条件なサポートについて、批判的であることを隠さず、また二極化への不安にも言及する。
「ここクロイツベルクで〈ドイツはイスラエルと連帯します〉という巨大なポスターを目にするとき、僕の心は揺れるのです。もちろん、ハマスの犠牲者を支えることはとても重要です。しかし同時に、それを公的なポスターで宣言すること、それは馬鹿げているように思うのです。ここに暮らすアラブ人、トルコ人、パレスチナ人たちがこれを忘れることは難しいでしょう」とドリー・マノール。「今現在、ガザで起きていること、それは全く恐ろしいこと。終わりにしなければいけない。ドイツの指導者たちが、停戦を要求してくれていたなら、どれだけ良かったことでしょう」

Le Monde 1月16日付

マノールさんの感覚が少数派のものであることは私も十分承知している。ベルリンの自由で寛容な雰囲気が好きで、アラブ人たちと仲良く共生することになんの疑問も抱いてこなかった当地のイスラエル人たちの中にあってさえ、なかなかこうした感覚までは持ちにくいのだと思う。ましてや、自分の息子が前線にいたり、祖先がホロコーストで亡くなっていたり、建国以来の戦争で家族や友人を失った経験のあるイスラエルのイスラエル人たち、日々の安全というものは脅かされるのが普通、そんな日常しか知らずに生きてきた彼らにとっては(それがいわゆるリベラルな層だったとしても)、より一層、そうであろう。

それを重々承知の上、いや、だからこそ、私は、マノールさんや、今は亡きヴィヴィアン・シルヴァーさんのような一人一人の人間に希望を託したい。マノールさんが再び詩の言葉を紡ぎ出せる日が来ることを心から願いたい。そうでもしなければ、実際やってられないのである。

写真/Dory Manor et Moshe Sakal, deux Israéliens francophones vivant en Allemagne, chez eux, à Berlin, le 5 janvier 2024. KARIM BEN KHELIFA POUR « LE MONDE »


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