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[全編]明日の朝になったなら

・深夜1時

「眠れないよ」
ベッドから降りた彼は、溜め息を吐きながらコンロを点火させ、お湯を沸かした。軽い寝癖を立たせた髪をもさもさとかいて、コーヒーを淹れる準備をしている。
私は物音で薄らと目を覚まし、布団をかぶったまま彼を見守っていた。
3月に結婚した私たちは、順風満帆な生活を送っていた。2人の貯金を使って家を建て、おそろいの服を何着も買った。
夕食は2人で作り、お互いの美味しそうな顔を見合いながら食べた。
そして髪の毛を梳かしながら、眠くなるまでお喋りをしていた。
恙無い生活。隠し事のない表情。
それが続くと、お互い疑わなかった。

4週間後。
「残念ですが……」
白い病院で告げられた、無慈悲な現実。
私たちの存在を象徴する命に会うことが出来ないというものだった。
「なんとか、ならないんですか?」
彼は受け入れることが出来ず、ひたすら医師を質問攻めにした。しかし、結果は変わらなかった。
病院から帰る車の中、彼は運転席に座るも、ハンドルを握らなかった。
「どうしたの?」
椅子に座らせた人形みたいに動かない彼に、私は恐る恐る声をかけた。
すると彼は、小さく口を開いて語り始めた。
「俺さ、子供が大好きなんだ。無邪気で、あどけなくて、いるだけでも幸せな気持ちにしてくれる。まさに夏希ちゃんみたいな存在さ。なのに、なのに……なのにっ……」
彼は堰を切ったように、表現出来ないほどに顔を濡らした。隣にいる私など構わず、わなわなと震えていた。
「こんなの……辛すぎるよ……!!神様はいねぇのかよ……!!!」
そして出会ってから初めて見るほどの激しい慟哭が、車内を埋めつくした。
「遥斗君…」
「ごめんね…。夏希ちゃんの方が辛いよね…。俺の事は気にしなくていいから、泣いていいよ…」
ハンドルに顔を伏せて、彼はさらに激しく泣き濡れる。私もその言葉を聞き、改めて自分に遭った運命を自覚し、彼と手を重ねたまま、お腹に手を当てて泣いた。
誰も恨んではいない。誰も憎んではいない。誰にも罪は無い。
なのに、そのはずなのに、
私たちはこの重すぎる運命を、
心から恨めしく思わずにはいられなかった。
その日から彼は、徐々に寝つきが悪くなった。
食事も日々の会話も少しづつ元に戻っている中で、睡眠だけは悪化していく様子だった。
毎日10時には眠る彼は、次第に10時半、11時となり、ついに日付が変わっても眠れない身体になってしまった。
何度か薬を試したことがあったが、彼は薬を嫌がって受け付けなかった。
飲んでくれた夜でも、元の時間に眠れる日は来なかった。
「眠れない。目が冴えてだめだ」
そう言って起き上がっては、窓の外の夜景を眺めていたり、スタンドライトを灯して本を読んでいたり、私の寝顔を眺めたりしていた。
「コーヒー飲んだら寝れなくなるよ?」
私は沸いたお湯を注ぐ彼に言った。
彼は耳を傾けるも、そのままマグカップに口をつけ、一口喉に流した。
「どうせ眠れないし、温かいもん」
「飲みすぎないでね」
私は横になったまま彼を見ていた。
彼はコーヒーを飲み終えると再びベッドの方へ近寄り、壁にもたれる形であぐらをかき、私を見つめた。
「ナッちゃんは寝ててよ。身体に毒だよ」
「どの口が言ってんのよっ」
私はのそのそベッドの端に移動し、彼に少し近づいた。
私を見る彼の目に光はなかった。生気があるようなないような、行ったり来たりしているような表情だった。
「寝てよ。本当に」
「ハルくんを放って寝るなんてできないよ」
「いいから。お願い」
「いやだ。だったらハルくんも寝て」
「俺は寝れない」
なかなか聞いてくれない。しびれを切らした私は布団をくるんだままベッドから降り、彼の隣に座って毛布を一緒にかけた。
「何これ?」
「じゃあせめて隣にいさせて。寝るまでずっといるから」
彼は小さく頷き、私からの布団を半分かけた。私もその隣に寄り添い、肩を並べた。
「少し喋ってもいい?」
「何を?」
「ハルくんの話」
「……え?」
何を言われたのか分からず、きょとんとしている彼。私は目元に届いている髪を分けてあげながら、話を始めた。
「思い出したんだ。ハルくんがくれた幸せのことを」

・深夜2時

私は彼と布団を分け合いながら、壁に背もたれていた。彼は私を横で見ながら、毛布を肩までかけている。
天井はまだ暗い。ぼんやりと取り付いている電灯は、消えかけている新月のよう。
「寒くない?」
私は彼に聞いた。
「大丈夫。ありがと」
彼はあぐらから体育座りになり、私の頭を撫でていた。
「久しぶりだね。それ」
「何となく思い出して」
彼はいつも、眠る私の頭をよく撫でていた。私が撫でられるのが好きなことを知っているからだ。そうすると私も、彼の背中を優しく叩いてあげる。お互いが安心して眠れる動作。
「でも今夜は、私が寝かせる番だよ」
「寝かせる番ってなんだよ」
彼はくすくす微笑んだ。私もつられて笑う。
「何日も寝てない夜更かしさんを寝かせる係なの」
「誰の事言ってんの?」
私は彼の背中に手を回し、小さくポンポンと背中を叩いた。彼はゆらゆらと揺れるも、変わらずに私を見ている。
「私ね、今幸せなの」
私は背中を叩きながら、彼に言った。
彼はそのセリフを聞いて、少し顔が曇った。
「…そうなの?」
悲しそうな目。まだあの日の悲しみを、完全に拭いきれていないように見える。
私は深く頷いた。
「何で幸せか分かる?」
彼は首を小さく横に振る。
私は反対の手で彼の手を握る。
「私を思ってくれてるから」
私は彼の耳元に答えた。彼はきょとんとしたまま。
「傍にいてくれてるから」
私はさらに彼に近付いて寄り添った。彼のがっちりとした骨格と、ゆっくりとテンポを刻む鼓動が伝わった。
「…それだけなの?」
彼はぼそっと不満気に言った。
「それだけだよ。それだけで十分」
「なんで?」
彼はまだ分からない様子。私は続ける。
「ハルくんと出会ってから、毎日何か特別になっていったんだ。何気ない日が、こう、あったかいな〜って。ほら、この手みたいに」
私はほぐれて温かくなった彼の手を目の前に持ち上げた。こうして見ると、改めて彼の手の厚さと大きさに、自分が女の手を持っていることを再確認する。
「…何それ」
彼がそう零した。しかし、その顔は微笑んでいる。仄暗い部屋でも、それははっきりと見えて分かった。
「とにかく、私はハルくんと出会ってから、毎日が変わった。もっと一日一日を、大切に生きられるようになったの」
「…それ以前は違ったの?」
「うん…。違った」
彼の問いに、私の脳裏に蘇る記憶があった。
「やめだやめだ。聞かないよ」
話すと雰囲気が重くなるのを察したのか、彼は遮るようにそう言った。
「今が楽しいなら、それが一番じゃない」
彼が私に笑いかけ、頬杖を作る。
「うん。そうだね」
私もすぐに微笑み返し、記憶を奥底に沈めて蓋をした。
「でもそっかぁ、俺ってちゃんと幸せに出来てたんだ」
彼がぼんやりと天井を見上げながら言った。
「でもね、貰ってる幸せの量なら、俺の方が上だと思うなぁ」
「そうなの?」
「うん。多分俺は、世界一の幸せ者だよ」
そう言うと、今度は彼が私の手を握ってきた。大きくて厚い二枚の手が、私の細くて小さな手の平を挟み込む。厚い手だが、その力は赤子に触れるように丁寧で、優しかった。

・深夜3時

部屋は薄暗闇に包まれていた。全てのものが仄暗い景色に映り、穏やかな沈黙が二人の周りを漂っていた。
そんな暗闇の中で、彼は私の手を握り続けていた。愛おしそうに、離さないと言わんばかりに。
私は彼の厚い手に挟まれながら、手の甲を通じて伝わる温もりを味わっていた。手の力を抜き、彼の好きなままにさせてあげた。
「あったかいなぁ」
「そうだね。ハルくんもあったかいよ」
すっかり二人分の体温がこもった布団の中は、寝袋のように温かった。私が身を寄せると、彼も近付いて身を寄せてくる。これ以上寄れなくても、ぐいぐいと身体を寄せていく。
「ねぇ、ナッちゃん」
「ん?なぁに?」
密着する私に、彼は声をかけた。彼の方を向くと、彼は優しく手を伸ばし、また頭を撫でた。
そして、小さく口を開いた。
「俺はナッちゃんと出会えて、凄く凄く凄く、幸せなんだ。何度も言うけど、何度でも言うつもり」
「そうなの?なら何回でも聞くよ」
私は目を閉じて、彼の手を握りながら身体を彼に傾ける。のしっと乗せると、彼の温かさが半身に届く。
「本当に。ナッちゃんと出会って、初めて何かを大切にすることの尊さを知ったから」
「え?」
彼が言った言葉。それはこれまで一度も、口にしたことがない言葉。私は手を止めて彼の顔を見た。薄暗い中で、彼は天井をぼんやりと見つめている。
「逆を言えば、ナッちゃんと出会うまで、俺は誰も大切に出来なかったんだ」
「そうなの…?」
「うん。昔は今みたいに優しくはなれなかったよ。ひどい人だった」
彼が打ち明けていく、自身の曇った過去。

人を傷付けてきたこと、
人から奪ってしまったこと、
人を騙し続けてきたこと、
何も守れなかったこと、
自分の手で泣かせた人を、見てきたこと。

「…言わなきゃよかったかな?」
全てを語り終えた彼は、虚空にぽつんと吐き捨てた。声には荷が降りたような軽さがあったが、決して楽になったとはとれなかった。
「ナッちゃん、やっぱ寝な。こんな時間になってまでこんな話、聞くんじゃなかったね」
彼は私を払いのけるような言い方でベッドに戻るように言った。
「え、やだよ」
私は離れるつもりはない。
「ホントに。寝て」
「い、や、だ」
私ははっきりとした口調で彼に言った。彼は溜め息をついて目を逸らした。
「そんなこと聞いたら、離れられないよ」
「離れて欲しいわけじゃないよ。寝て欲しいの。俺の話を聞いたせいで寝不足になられちゃ、俺はイヤなんだよ」
彼は言った。私への気遣いがこもった言葉。
しかし私に離れる気はない。
「明日は休みだからいいの」
私は言うと、彼の半身に抱き付いた。
「…なんだよ?」
彼が動かずにそう言う。
「今夜は絶対、離れない。必ずハルくんを寝かすから」
「そうですか…」
彼は私に布団をかけて、再び天井を見た。時計の秒針のテンポだけが、この部屋に響いている。
「ねぇ、ハルくん」
私は彼に声をかける。
「何?」
「あの話、何で今日まで言わなかったの?」
私は彼が打ち明けた話について訊いた。
「言ったら、ナッちゃんびっくりしちゃうと思って。あとは自分としても、蓋をしておきたいことだったから」
彼は肩を落とし、寂しそうな声で答えた。
「こんなひどい人間だってこと、知ったら一緒にいてくれなくなっちゃうと思ったら、怖くて…」
私はそれを聞いて、彼のパジャマの腰回りを強く掴んだ。私の中で、何かぐるぐるとした悔しさが渦巻いていたから。
「どうしたの?」
彼がそんな私を見て言った。
私も口を開く。
「ひどいよ…本当にひどいよ…」
「…そうでしょう?」
「私にも言えないことだったの…?言ったら私が拒絶するとでも思ったの…?」
「…え?」
絞り出すように話す私に彼は驚いて、ぼそっと声を漏らした。
「私たち、今まで本音隠さずにいたじゃん。なんで言わないのよ…」
「悲しませたくなくて…」
「悲しませたくない…?私はハルくんがその気持ちを言えずにいたことが、悲しいよ?」
私は彼の肩に顔を落として震えた。大好きな人が抱えているものに気が付けなかったことへの不甲斐なさがあって、寒くてたまらなかった。
「ごめん。ずっと言えなくて…」
私からずり落ちた毛布を、彼がまたかけ直す。しかし、心身をかぶせる寒気は止むことがなく、私の心身を凍えさせていた。

・4時。

白々と外が明るくなってきた。私は彼の半身に寄り、震えたままでいた。
「ごめん…」
彼が小さく謝った。震える私にかけた布団と一緒に、彼も私を抱きしめていた。
「本当にごめんね…」
何度も「ごめんね」と聞く度に、私は瞼の裏にせり上がってくる涙の滴を抑え切れなくなる。そして指先を細かく震わせながら、彼の気持ちに寄り添っていた。
「…俺は弱いやつだ」
しばらくの沈黙の後に、彼はそう自分に吐き捨てて言った。
「え?」
「俺は弱いや。昔のことをいつまでも引きずってさ。もう何年も前のことを」
それを聞いた時、私は我慢できなくなり、溜め込んでいた涙を流した。視界が曇り、ぽつぽつと床に水滴が滴っている。
「ナッちゃん…?」
彼が私の様子に気が付き、声をかけた。私は震える声から搾り出すように言った。
「弱いなんて言わないで。私は弱いなんて思わないよ…」
「何で?俺は弱いよ」
「うるさい!もう言わないで!」
私はもう、耐えられなかった。大好きな彼が、自分のことよりも優先している彼が、彼自身を責めて傷付けている様が、悲しくて、とても我慢できなかった。
「ごめん…ひどいこと言っちゃった…」
私は自分の言ったことに気が付き、すぐ謝った。彼は俯いて、首を横に振った。
「でも、本当にハルくんは弱くない」
「何でそこまで言えるのさ?」
「ちゃんと向き合ってるから。自分のしてきたことを、ずっと反省してるから。だから、弱いなんて…」
泣いた瞼が腫れ、じんじんと響いている。彼は何も言わないままでいた。
「でも怖いんだ。もしナッちゃんを同じように傷付けてしまったらって思ったら」
「傷付けてたっていいよ」
「え?何で?」
「傷つかないまま生きようなんて思ってないもん。一緒にいるんだもん。そんな日も来ると思ってる。そんなこと言ったら、私だってハルくんを傷付けちゃうかもしれないよ?それでも私は、ハルくんと一緒にいたいと思ってる」
その言葉が、彼の心にストンと落ちたのかもしれない。彼の曇っていた表情は、少し明るさを取り戻し始めていた。

・5時。

外は白々と明るくなり始めた。
泣き疲れた私は、彼の肩に寄りかかってそのまま一時的に眠ってしまっていたようで、再び目を開けた時、彼の硬い肩の骨の感触があった。
「あ、もう朝になる…」
私は彼の方を見た。彼は目を閉じたまま、壁にもたれて静かに息をしていた。
「ハルくん…?寝てるの?」
私の声掛けに彼はゆっくりと瞼を開き、周り見渡してから私の顔を見た。
「少し、うたた寝してたわ」
左手で目を擦り、小さなあくびで口を開ける。それは、数ヶ月ぶりに見た彼の仕草だった。
「眠いの?」
「うーん…、少し……」
彼は布団を深く被りながら言った。
私は少し、心がパッと明るくなり始めた。それまで全く眠ることがなかった彼が、ようやく眠たげな仕草を見せてくれたから。
私は彼の長い前髪を指先で軽く触れた。しょぼついた黒い瞳が、ゆっくりと明けていく淡い朝日を吸い込んでいる。
「ナッちゃんは寝れた?俺に構ってたから寝れてないでしょ?」
「大丈夫。何回か寝てたから。ありがとう」
私は彼に寄り添う。もう彼の顔は、暗闇から解かれ、はっきりとしている。その手で触れ、見つめ合ってきた彫りの深い顔、愛を確かめる時、悲しみを癒し合う時に重ね合った薄桃色の唇、肌色に骨が浮き上がっている鎖骨。見つめれば見つめるほど、私は彼を愛してやまないのだと再認識する。
彼は目を閉じて、深呼吸するように息をしていた。それは眠るほんのひとつ手前ともとれる姿勢だった。
「…今何時?」
目を閉じた彼がふと、私に訊ねた。私は充電が満タンになったスマホを充電コードから抜き、画面を開いた。
「5時過ぎだよ。そろそろ朝だね」
「そっか…」
彼は私から時刻を聞くと、右手を伸ばして私の頭にぽんと置いた。そして、優しく梳かす手つきで頭を撫でた。
「ありがとう。朝まで横にいてくれてさ。本当は寝るべきだったのに…」
「いいの。寝れるまでここにいるつもりだったからさ」
私は彼の顔を見ていた。半目になっている彼の目は、徐々に重そうに下がっていく。まるで眠いのを我慢している子供のように。
そうしていると、彼はするすると身体を横に倒して、床に身体を倒した。
「もう…。床は冷たいよ?」
「うん。少しだけ…」
彼はすっかり、自分の眠気に身を任せていた。私は床に伏せて寝息を立て始める彼に、私も再び眠気にとろんと包まれ始めた。
「じゃあ私も…」
私もベッドから枕を引っ張って置き、彼と並ぶ形で横になった。
彼の寝顔は、眠りに落ち着いた赤子によく似ていた。寝息による息の音は、心地よく眠っていったことが伝わった。
部屋は灰色から淡く白くなり始め、周りの家具の輪郭を浮かばせている。
長かった夜の濃い闇は、どこにもなかった。

・6時。

長い夜く果てのないように思えた夜は終わりを迎え、部屋は明るさを取り戻した。窓からは夜の冷えを拭っていく陽の温度が広がり、穏やかな刺激に目から順に身体全体を眠気から解き放っていく。
私は鳥の囀りと、自分の身体を挟むふわふわとした温もりに気が付き、そっと右手を動かした。そして、そこが床ではなくベッドであることに気がついた。
(ハルくん…、運んでくれたんだ)
私は目を開けて身体を起こした。窓越しに鳥の囀りが聞こえ、開けてくれたのかカーテンが開いている。
部屋を見渡すと、彼の姿はなかった。その代わりに、一階から生活感のある物音が聞こえていた。
私は起き上がり、一階へと降りた。

「おはよ」
「おはよう。寝不足じゃない?」
「大丈夫。休みでも二度寝したらもったいないから」
リビングに行くと、彼が台所で軽やかな手つきで野菜を切り、私の好きな野菜サラダを作っていた。彼が料理をするところは何度か見たことがあるが、朝ごはんを作るところは初めて見た。いつもは私の方が起きるのが早いため、自動的に私が朝ごはん担当になるわけだ。
「朝ごはん作ったよ。食べよ」
彼が手際よく、皿に野菜を乗せていく。私も頷いて、トースターで食パンを焼いた。
「私にもコーヒー、淹れてくれる?」
「いいよ。砂糖はつける?」
「じゃあ、お願い」
彼が私の分のコーヒーを淹れる。濃くほろ苦い匂いが、お湯を注ぐとともに二人の間に蒸発し、鼻腔に吸い込まれていく。
「はい。熱いから気を付けて」
「ありがとう」
私の前に置かれるマグカップ。縁には水滴が集合し、湯気が私の目の前で引っ張られるような、吸い込まれるような仕草で消えていく。
私は昨夜の記憶を思い出していた。今ではいつも通りの表情の彼も、少し前までは暗闇の中で自分の記憶を責めていた。私は自分に出来るやり方で彼を慰めたつもりだが、それが届いているかどうかは分からない。
口をつけたコーヒーの苦味は、今の私の心とよく似ていた。
「今日はどこに行こうか」
白いテーブルに向かい合って座る。彼はバターがべったりと塗られたパンを齧りながら、私に今日の予定を訊ねた。
「どうしよっか。天気がいいから出かけたいよね」
私が答えると、彼は閃いたと口を開いた。
「じゃあさ、少し前に話したあのデパート行こうよ。何かイベントあるかも」
彼は嬉しそうに話す。あの夜の表情をした彼とは思えない。それが嬉しかったり、どこかリンクしなかったり。
「そうだね。じゃあ行こっか」
「やった!服選んであげるよ」
これからの予定に気分が高まる彼を見つめながら、私はサラダの最後の一口を食べ終えた。

二人で過ごした休日はあっという間に過ぎ、家に帰る頃には星の群れがスパンコールのように輝いていた。
夕食を食べ終えて入浴も済ませた私たちは、寝るまでの少しの時間ゆっくりとしていた。
彼はソファに座り、手帳に今日の出来事を書いている私を楽しそうに見つめていた。
「ねぇ」
「ん?どうしたの?」
「もうそろそろ寝ない?」
私は驚いた。彼の口から、「寝よう」と言葉が出てくるとは思わなかったからだ。思わず私は、ペンを握った右手が止まった。
「え、寝るの?」
「うん。一緒に寝よ?」
彼が照れながら、私の手を握る。とろんとした瞳を見ると、確かに眠そうなことが伝わった。
「いいよ。じゃああと少し待ってね」

真っ暗な寝室。
私たちはベッドに向かい合っていた。暗い空間ではお互いの顔は見えないが、微かに聞こえる呼吸の音で把握出来ていた。
彼は私の手を握って、穏やかに息をしている。私も握られた手をもう片方の手で挟み込み、大きく分厚い手に触れている。
私は彼の手に触れながら、昨日までの彼を思い出していた。
眠れずに、私を寝かしつけてくれた。しかし、彼は一向に寝ることはなく、目の隈を濃くするばかり。
そんな彼を見たくなくて、私は彼に想いを打ち明けた。今の彼を見れば、あの夜には意味があったんだと、思える。
「起きてるの?」
彼の声が聞こえ、私は暗闇の中目を開いた。
「少しね」
「俺の事なら気にしないで。寝れるから」
「そう?なら良かった」
彼のそのセリフを聞き、私は安心した。
彼のすー、すー、という寝息は、私をどこか安心させるものがある。いつまでも聞いていられる。私も何度も、その寝息によって夜をこえている。嬉しそうに眠る日も、泣きながら眠る日も全て。
「ねぇ、ハルくん。起きてる?」
「んぅ?どうしたの?」
私は少し悪いと思いながら、彼に話しかけた。
そして、手探りに彼の頭を探し、ぽんと置いて撫でた。
「え?どうしたのさ」
彼が照れくさそうに言う。私は気にせずに頭を撫でる。
「ん?特に理由はないよ。こうしたいからこうしてるだけ」
「何それ?」
「ハルくんのまねっ」
私はもう少し彼に身体を寄せる。柔らかくて温かい人肌が、至近距離で伝わってくる。何度も感じた距離だというのに、なぜか今日は、これまでよりも愛おしい。この感覚のままでいたくなる。
吐息が重なる距離を感じた時、彼は私に唇を重ねた。彼も私の手を握り、受け止めた。
「懐かしいね。と言ってもそんなに経ってないけど」
「そうね。大学の頃の旅行以来だよね」
私は彼のさらに近くに寄り、二人は完全にゼロ距離になった。体温が高まり、男女を挟む毛布とベッドは二人の体温を閉じ込める。
「あの時は緊張して、鼓動がうるさいくらいだったのに、今では何とも思わないや」
「そうだね。俺たち、もうここまで来ちゃったんだね」
彼は私たちの生活の進展を喜ぶように、しかしかつてあった甘い恥じらいの消失を惜しむように言った。
「ハルくんが大切にしてくれたから、ここまで一緒にいられたんだよ」
私は彼に言葉を贈った。
「違う。ナッちゃんが俺を受け入れてくれたからなんだよ。あの夜でさ、俺、ナッちゃんをさらに好きになった」
彼も、私に言葉を贈った。
「ふふ。もう。彼女としてのことをしたまでだって」
それから私たちは、ひとつひとつ呟くように暗闇の中で語り合った。声だけが近い中での会話は、出会った頃のドキドキを蘇らせた。

「ねぇ、ナッちゃん」
長らく会話した後、彼が言った。
「どうしたの?」
私が返すと、彼は私を胸の中に包み込み、ぎゅっと優しく抱きしめた。彼の体温と胸筋の程よい硬さ、鼓動が逞しく鳴っていた。
「ハルくん…?」
「大好き。大好きだよ」
彼ははっきりと言った。抱きしめる腕の力は、そのセリフを身体に刻みつけるかのよう。
「どうしたの?私も大好きだよ」
私も抱きしめ返す。彼は息を深く吸い、ゆっくりと吐いた。
「こんな俺を、ここまで愛してくれてありがとう。感謝してもしきれないや」
そういう彼の声は、どこか緩み始めた涙腺を堪えているように聞こえた。
「…私も。愛してくれてありがとう。恋の経験が多いわけじゃないけどさ、ここまで大切にされたの、ハルくんが初めてだよ」
私はもう一度唇を重ねる。唇を通じて、お互いの存在と愛情を繋げる。繋がっていることを、確かなものにする。
「俺、これからも迷惑かけるかもしれない。それでも、そばにいて欲しい…」
彼は震えながら私に言った。その瞬間、首元を冷たい線が伝った。
私の答えは、もちろん決まっていた。
「いいよ。あなたなら。私だってそうだもん。その度に直しあって、また恋しようよ」
私の身体が、さらに強く締まる。私は答えるように、彼の背中を叩いた。
「…ありがとう。もう大丈夫」
「うん。良かった」
彼の声が軽くなり、身体から力が抜けた。呼吸も落ち着きを取り戻し、震えもなかった。
「おやすみ。ハルくん」
私は彼の腕の中、静かに目を閉じた。
明日の朝になったら、彼はどんな顔をするのだろう。なんて言葉がくるのだろう。彼の鼓動を聴きながら、徐々に意識が温もりの中に落ちていく。寝息と寝息が重なり混ざる時、夜はあっという間に流れていく。
二人の身体と体温に包まれたそこは、お互いにとって何よりも、心地の良い場所だった。

やがて、私は鳥のさえずりにより目を覚ました。明るい陽が昇り、部屋を照らす。
私の隣では、最愛の人がまだ眠っている。枕を私だと思いこみ、赤子のような姿勢で抱きしめている。
私は彼を眺める。目に映る彼は、どこまで見ても、愛おしい。
「おはよう」
私は声をかけてみた。彼は声に反応して小さく身体を動かし、寝返りをうった。
「…おはよ」
うっすらと目を開けた時、私は彼と目が合った。まだ眠たそうな彼の表情を見て、彼の横に身体を倒す。
「今日、何曜日?」
「日曜日だよ。今日はどこ行こっか?」
私が話しかけると、彼はあくびをしながら私を抱きしめた。
「ナッちゃんのとこがいい」
やっぱり、彼が愛おしい。そう思い、やまなかった。
「いいよ。じゃあもうちょっと寝よっか」
私も彼を抱きしめ、目を閉じた。今度はよるとは違い、お互いの顔がよく見える。
久しぶりに再開した、彼の寝顔。
朝の温かい温度と、最愛の人からの温もりを贅沢に感じながら、二人の呼吸は深くなった。
二人一緒だと、確かめあった格好で。

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