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あなたはあなたのままがいい 第1話「風見遥斗」

小花夏希。
俺の命よりも大切な人。
俺の全てよりも優先してあげたい人。
「愛してる」なんて言葉では足りないくらい、俺は彼女の全てに惚れ浸かっている。
出会ってから今日まで、その気持ちが揺らいだことは一度もない。
そしてこれからも、その気持ちが揺れることも、揺らすこともない。
シミひとつない顔には光沢を宿すビー玉のような瞳がふたつ。その上にまつ毛が行儀良く並び、目元の美しさを引き立てている。
茶色の綺麗なボブの髪型は、夏希が顔を動かすたびにふんわりと揺れる。それが可愛らしくてたまらない。
スタイルも好み真っ直ぐで、頭の先からつま先まで全てが完璧に思う。会って最初の頃は腕の細さに少しびっくりしたが、一緒に過ごしているうちにちょうどいいくらいになってきた。
笑う時の声は、猫が「みゃー」と鳴くようで、いつどこで聞いていても心地がいい。
鳴く時は声を立てずに、ベッドの枕に顔を埋めてジッとしている。ひどく落ち込んでいる時は、耳を塞いでいた時もあった。
怒っている時は三段階あって、一段目は小さくムッとして頭を軽くペシっと叩く。二段目は少し眉をひそめて強い口調を見せ始める。三段目になれば「いい加減にして!」と本気になる。これまで三段目にまで怒らせた時は二度しかないが、出来るだけ怒らせないようにしたいと思う。
多趣味で、俺じゃわからない趣味も多い夏希だけれど、共通している趣味もたくさんある。
例えば、好きな音楽のジャンル。
俺と夏希が心を開くきっかけになった話題でもあった。
俺は、ピアノがポロロロ…、と静かに寄り添うようなゆったりとしたバラードなどが好きだ。夏希も同じで、優しいピアノ曲が好きだと言っていた。
もう一つ挙げれば好きな食べ物。
最初のデートのお昼ご飯は、その街で評判の高いカレー屋だった。その日は暑くて、俺が上着を脱いだ時、偶然白い服を着ていて、カレーを垂らさないように気をつけて食べたっけ。そんな俺を見ながら夏希は、辛口を子供のように嬉しそうな顔して食べてたのには驚かされたな。
そんな感じで、他にも語るとブレーキがきかなくなるが、俺の夏希への愛はそれほどだ。
夏希は時々、俺にこんなことを言う。
「私も遥斗君みたいになれたらいいのになぁ」
俺はその台詞だけは、どうしても「そっか」って言って、上手く笑うことができない。
その台詞を聞くと、自分の辿ってきた道のりを思い返してしまって、照らされたはずの視界が一度暗くなってしまう。それは、不意に訪れた停電の時みたいに。


………俺自身を振り返るとすれば、あまり褒められた生き方は出来なかったなと思う。少なくとも他の人に比べて、間違いと非道を繰り返していたなと思う。
数えるとキリがなく、その分自己嫌悪の色が濃くなる。それでも忘れることは許されない。忘れること即ち、過去に対する贖罪を止めることに等しいから。
俺は小さなアパートの一室で産まれた。アパートって言っても、部屋がいくつか並ぶばかりの粗末なもので、ここに人を呼ぶなんて恥ずかしくて出来ない。
父親は毎日遊び歩き、働くことはなかった。毎日遊んでいたから、俺は父親の名前を知らない。この家の働き手は母親だけだった。
母は専業主婦だったものが正社員として近所のスーパーで働き、家のお金をやりくりするために汗水を流した。
それでも父親は、そんな母親を労わるどころか、我が物顔で財布を手に取り、数万円を引き抜いて遊びに使う。自分の財布を開いて肩を落とす母親の後ろ姿は、子供ながら悲しくてならなかった。
「今日もふりかけだけ?」
「ごめんね…。許して…」
小さい頃の俺は、まともに食べることもできなかった。
そのため小学校の給食が、美味しくて美味しくてたまらなかった。俺の成長のほとんどは、この時期の給食によるものだと言っても過言ではなかった。
また、学校生活も楽しかった。友達にも恵まれ、先生にも恵まれ、そこで俺の寂しさは埋められた。
俺は幸せになれたと思っていた。この頃までは。
小学校を無事に卒業し、中学三年生になった頃だった。
「遥斗。俺と母さんは離婚した。今日からお前は俺と住め」
父親から突然言われた、この台詞。
「…は?」
「わからねぇのか?離婚したんだよ」
「聞きゃ分かるわ。その上で言ってんだよ。どういうことだよ?」
考えられなかった。
分からなかった。
分かりたくなかった。
父親の言葉が脳内で繰り返される。嫌いな声が何度も何度も聞こえて気色が悪い。
そして俺は初めて、形になり始めた「平穏」が崩れ去る予感と、その前兆である胃の痛みを感じ取った。


次回 第二話 「風見遥斗 2」
5月25日

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